本は人を選ぶ

 ゲーテの「ファウスト」を読んでいる。読んでいる、というより、どういう言葉も相応しくない、… 言葉にすれば読んでいる、ということだ。
 この本は、読んで理解するというより、読む人の中に内在するものの確認、ゲーテの言葉から自己の内面を照射させて(その言葉に抽出されたように)確認していく作業、この確認から「読む」=「理解する」という本だと思う。
 まちがっても、まじめに読むものではない。言葉、語句の逐一をまじめにとらえ、すがりつくように、一字一句理解しながら、頭で、読もうとしたら躓くだろう。
 何年も前から家にあり、まじめに読もうとして読めなかった本だ。

 昨日風呂場でページをめくりながら、「読んだ」。具体的には、ただの装飾、ゲーテにとっては相当の熱量をもって、よくいう「魂を込めて」書いたものだろう。その形容される語句は、たいして惹かれるものではなかった。舞台設定、場面の描写の形容、それがどんなに美しいものであっても、こちらに響くものではなかった。
 そんな描写よりも、ファウスト自身の、ゲーテ自身の… すべてがゲーテであろうが… 形容そのもの・・・・・・となっている言葉が、よく響いてきた。
 具体的でないもの、一般には理解し難いだろう(とゲーテも想像したであろうこと)言葉が、とても具体的に、現実的に、事実的に、胸の奥、元々こちらにあったものとふれあい、強く入ってきた。…確認、だ。

 元来、あらゆるものは、こういうことだ。こちらにあるものとしか、それは共有できない。どんなに作者が、ヤカンが、石が、下駄が主張、その魂を訴えてきたところで、こちらにその魂がない限り(その自己に気づいていない限り)それらはこちらに何も響かない。
 ゲーテがいくら生涯をかけて書き上げた大作だとしても、こちらにそれがないと、こちらには何でもない、ただの無駄な、装飾字句ばかりに溢れた単なる字だけが並んだ書物だ。

 この本に酔いしれるには、その装飾も欠かせぬものだろうが、そこまで酔いしれようとは思わない。それも、こちらの問題で、ゲーテには何の非もない。当然のことだ。あの世にいるゲーテ、気を悪くしないでくれ!
 あくまでも確認としてぼくは読んだ。大切なんだ、この確認・・が。
 その先は… それもこちらの問題だ。課題だ。
 繰り返すが、頭で理解するものではない。頭は、だいぶんやられているからだ、この世の常識、しきたり、慣習、偏見、独断と思わせての《衆断》、まっさらな、生命、宇宙との紐帯とはかけ離れてしまっているんだ。
 ぼくにはそれがまだ残っている… 心細い、これでいいのか?と思わせるものだ。そいつを、ファウストは確認させてくれた、ということだ。心強い。友達だよ、ファウスト先生! あなたに寄り添うワーグネルが好きだよ。

 こちらが好んで、選んで、本や物品とふれあうが… それと同様に、本や物品もこちらを選んでいる、ということがよく分かった。
 こいつがあの大作だ!とか、これが文学史上の傑作だ!とか、そんなことからこいつに飛びつき、使命のように読んだところで、本はこちらを選別する、読むに、読まれるにふさわしいものを、お前はもっているか? お前は違ったね、またおいで!と。

 時が巡って、こちらにその《準備》ができた時… 巡り合わせのようにまたそのページをお前はめくるのだ。
 もともと、そいつはお前に備わっていたものだったのだがね…
 ── 申し訳ないが、今のところ確認でいっぱいだ。でも、繰り返すが、この確認、心強かったよ。