読了。
一昨年の十二月に幻戯書房(ルリユール叢書)から発刊されたもの。新刊だ。
「盗まれた!」とセリーヌが言っていた原稿が見つかり、今になって出版されたという…。
数千枚の原稿も発見され、今後出版予定だとか。死後60年。戦争時代の現代に、再びセリーヌの新しい作品が読める。
自分にとってセリーヌは必要な作家だ。もう読みたくないと思う、でも読まずにはいられない。
読みたくないのに、読みたくなる。こういう感じは初めてで、はっきり言って凄い作家だと言わずにおれない。こういう作品を書く人を、ぼくは他に知らない。
「セリーヌ 戦争」で検索すれば、朝日新聞の記事に書評されているし、おおまかなところはネットで知れる。だからそういうことは書きたくない。
《主張のない読み物は、何も考えていない書き物と同じ》
主張。しかし「青年の主張」みたいに堂々と何か主張するのではない。むしろ怨嗟、怒り… 情動だ。それもただ自分が愚痴をいって楽になるためでなく、相手、読者をチャンと意識した、うらみつらみの捌け口のような。セリーヌはサービス精神の旺盛な人だったのかもしれない。
ぼくが読んでいて感じるのはユーモアだ。笑わざるをえない箇所が、不意に出てくる。何が可笑しいというわけでない。その勢い、セリーヌが情動に任せてペンをひたすら走らせる勢い… その勢いに押され流され、気づけばポッと笑える箇所に突き当たるのだ。
本人にしてみれば、もちろん推敲を重ね、けっして勢いだけで書いているのではない。でも「それは読者に関係ないことだ」。ちょっと残念そうな気配をみせながらセリーヌは言う。
こちら(読み手)は、その勢いに流されながら、流木なんかにつかまって流れる。けっして冷たくない、暖かい、セリーヌの水。
その作品、小説というより「作品」といえるその読み物は、もう魔力だ。すっかり虜になって、読みたくないけど読みたいという矛盾に喘ぐことになる。そして嬉しい。
さてこの「戦争」。それまで国書刊行会出版のセリーヌ全集、その数冊を読んできた身には、何か物足りなかった。
新刊は平仮名が多い。現代訳、読み易さを重視したせいなのか… かえって読みにくかった。セリーヌの文体自体、口語調で読み易い(セリーヌにいわせれば「詩的」)はずだから、訳し方までそんなサービス精神を発揮しなくても、と…。こちらの誤解だったらごめんなさい。また読み返したら違う感想を持つかもしれない。
「訳者解題」が面白かった。大江の「静かな生活」の中にセリーヌのことが細かく書かれていることや、インタビューでのセリーヌの発言、「セリーヌはヒトラーに買収されていたのではないか?」というサルトルの発言に「人の糞尿にたかる蛆虫野郎」とセリーヌが反論したとか、そんなようなことが。
全く、セリーヌはカネに動くような生半可な男ではなかったとぼくは思う。
「静かな生活」は家にあり、押し入れから取り出してその箇所を読んでみることにもなった。確かにセリーヌのことが愛をもって書かれていた…。その小説の中で取り上げられていた「リゴドン」を「日本の古本屋」で注文することにもなった。
「愛し合えばいいのに」
この「戦争」に限らず、セリーヌが全作品で言いたかったことの根柢には、この一言があったと思う。
人間は愛し合えない。この人間というものへの呪詛、怒りが、セリーヌの文学、作品をつくっているのだと思う。
「憎しみが足りなかった」というセリーヌの言葉も強く印象に残る。全然売れない作品を書いていた頃か。
そう、憎しみ、大切なんだ。それなくして、愛もない…