題名縛り

 タイトルは重要だと思う。最初にタイトルを決め、それに向かって書く場合と、書いたあと決める場合、また書いている途中で決める場合の3パターンがある。
 タイトルを見て、内容がもう読む前からわかってしまうのも多い。そういう作品は、なかなか読もうという気になれない。
 中学の卒業文集なんかで「無題」という作文をいくつか見かけたが、三年間の思い出に題名など付けられない、言葉に言い尽くせない、そんな思いを「無題」から感じた。
 こういう文集であれば、書いている人の顔も知っているし、その人への興味から読むのがほとんどだろうから、タイトルは二の次でいいと思われる。大好きな人の書いたものなら、どんなものでも喜んで読むだろう!

 投稿サイト、ブログ等、パブリックなものとなるとそうはいかない。書いた作文、文章は、誰が書いたか、誰も知らない。作品タイトルが「顔」になり、興味関心を引くきっかけになる。「無題」では厳しいと思われる。たくさん読まれたければ、内容紹介、SNSを通じてのアッピール。
 その点、課題文学とか、あるキーワードを与えられて、そこから作品をつくるのは面白いと思う。共通のテーマに向かって創作し、投稿する。同じ言葉から、こういう発想をするか! という発見もあるし、ほかの人の書いたものも興味をもって読める。共有できるって、素敵なことだと思う。

 タイトルの話だった… 近年、おお、と思ったのは「なしくずしの死」。
 なしくずしの死! これは読まねばと、否応なく思わされた。
 また、「人間的な、あまりに人間的な」。すごいタイトルだった…
 「おそれおののき」。……
 何がすごいのか、よくわからないが、何か響いてくる…「美徳のよろめき」というのもあった、これは三島だ…

《吾人に見えるものは吾人の注視するもののみであり、吾人の注視するものは既に吾人の胸中にあるもののみである》とは、セリーヌが好んだ言葉。まったく、その通りだ、何も言えねえ。

《忘れちゃならんのは、インスピレーションってやつは、死からやって来るんだ。作業台の上に自分の肌身を晒さなかったら、何一つだって手に入りゃしない。自分で支払う必要があるんだ! タダで作り出されたものなんて、きまって失敗、いや、もっとひどい。ほら、タダでやってる作家連中がいるだろ。今じゃ、みんなタダでやってる作家ばかりじゃないか。タダのものからはタダの匂いが漂ってくるのさ》

 セリーヌの言葉から、確認することが多い。やっぱり言葉、重要だ… まわりに、言葉を軽んずる人がいたとしても、それに迎合すまい! 日常の話だ…

《もしあらゆる人間が戦争に行きたくなけりゃ、簡単だ、「俺は戦争に行かない」そう言えば良い。ところが連中には死の欲求がある。欲求があるんだ、人間には厭世的なものがあるんだ。たとえばほれ、事故がどんなふうに起るか見てみたまえ。事故がみんな過失だなんて思ったら間違いだ。中には、中には悪い奴がいるんだな、本当に立木に突っ込んでいく奴が。突っ込むために車に乗る奴はいないさ。だが、それでもちゃんとその欲望はあるんだ。ぼく自身、観察した。とりわけ外科医にそれが多い。立派な人達だがね。彼らの運転ときたら、そうとしか思えないよ》

 … 何が言いたかったんだっけ、そうだ、題名縛り。たいした話じゃない、「戦時下」って言葉に縛られてる、っていう…。
《戦争万歳!》セリーヌは言った。このパラドックス、ほんとにたまらんよ、セリーヌ。

(引用、「北」(下)図書刊行会、「戦争」ルリユール叢書)