「文体をもっていない作家は尊敬しない」とセリーヌは言う。
「自分の」文体だ。
誰だって文体をもって書いているだろう。
が、「自分の」文体をもっている作家はとてもとても少ない…「いない」かもしれない。
大江も椎名さんも(初期の椎名さんは特に)、誰が見てもこの人の書いた作品だ、と一目でわかる。
内容が文体をつくる、とも言える。その内容は、筆者に依る。どんなところに、最も関心があるかという。それに向かうかという。
内容に引っ張られる、そんな書き方をしてきたが、セリーヌを読んで、内容ばかりに依存するのも考えものだと思った。書き方、文体、これによって中身が引っ張られることもあるんだ、と。
セリーヌの言葉は俗語、罵るような汚い言葉も多く… 文語体でないから、立派な文章とは呼ばれないかもしれない。でもそんなもんじゃないんだということがよくわかる、だいぶ前の作家だけれど、その表現・書き方は現代語、現代の言葉に聞こえてくる。訳された年、刊行されたのだってだいぶ前だ、それでも今、2024年にいる人達が平気で使っている言葉に聞こえてくる。
言葉は時間の流れで変化する、人と同じに。それでも源流、ふだん使っている言葉、言い方、話し方の源はたいして変わらないんだ、と。人の源が、時が流れてもたいして変わらないのと同じように。
不思議な感覚に陥る。昔なのに昔でない。だからって今書かれた文章でもない。生きてる言葉って、こういうものなのか。
セリーヌの思惑通りに、読まされてしまっているのかもしれない。何回も読み返すことになる、笑える箇所も多い。戦時下の悲惨な状況での自分の体験を基本に書いているはずなのに。普遍的な、永遠に残るような言葉もサラリと描き、でも流れは日常、猫のベベール、奥さんのリリ、まわりにいるロシア人、ボッシュ(ドイツ人を蔑んでいう差別語)、人種は違えど結局人間とあれこれすることにあり。
「くそったれの人間ども」…罵詈雑言、悪罵面罵、浴びせる汚い俗語、生き生き、生き生き!
セリーヌと出逢えてよかったよ、ほんとうに。