読まれて嬉しいもの

 荘子の内篇。
 これは読まれると嬉しい。
 理性で読むものでもない気がする。なぜなら本当に荘子について書こうとすると、こんなに好きなのに何も書けなくなるからだ。
 理性というのは、人間の後退ではないかと思わされる。

 言葉を駆使して、あれやこれやと書いてきたけれど(それが書くということらしい)、ややこしいものほど嘘っぱちに見えてくる。
 ほんとうのこと、ほんとうの気持ち、ほんとうの心みたいなものは、そんな言葉を必要としないものだ。
 どれもそぐわず、表現されることを拒むものだ。
 だから躍起になることもできたのだが。

 ここ二日ぐらい、ネットを閉じていた。
 インターネットをしないというのは、とてもよかった。時間が全然違うように流れた… やればできる環境で、しなかったのは初めてだ。
 いかにネット(網!)に、自分からすすんで縛られに、捉われに行っていたか…

 便利なものは、不便なんだほんとうは。

 でも書くことが習慣になってしまっているとしたら。
 そこから先も、またしても自分の問題だ。
 生と死は同じ。ああでもないこうでもないと書いてきて、自分の言いたかったことは、繋ぎ合わせてひっくるめれば、これだけに尽きる気がする。