そう、べつに書き手が、いのちを賭して書こうが、戯れにふざけて書こうか、読み手にしてみれば同じことなのだ。
その読み手と書き手の関係性に依る所が大きいが、その関係も自己と自己の関係であることから離れることはできないからだ。他者をもってある自己、他者をもって発現したところの自己、その自己と自己との関係であることから外れることはできないからだ。
共感的反感、反感的共感も、それに伴う。同じことだとは言え、その同じであるところは自己自身に限定されるものであって、他者と共し、他者に反する、というものではない。
自己に受け入れられるものが共感であり、受け入れ難いものが反感になる。その強度を決めるのは相手に求める自分の期待具合に比例する。その求めは、自己に既にあるもので、その自己に従って、自己がそれを求めるにすぎない、またその自己の求めにゴーサインを出すのも自己であるし、ストップをかけるのも自己だから、どんな時と場面であっても自分で判断し、決めているいうことになる。誰のせいでもない。
すると運命というのも、自分に現前するあらゆる事象、物事に対する自分が、それへの対し方を決めているのであって、それを決める自分自身が一個の運命であると言える。自己以外の何ものかによって決せられるものでない。
にも関わらず、これは運命だ、と、何ものかによって導かれたかのようなものとして、その言葉が用いられる。
子どもの頃に運命は自覚されない。ある程度生き、自分の今までのことを顧みるようになって、あああの人と出逢った、あああんな事こんな事、と顧み、そうして今の自分がここにいる、となっていることに対して、本人・当人として初めて「運命」のように思う。
物が存在し、人が存在し、それが常に動いているものである以上(この地も、天も!)、また自己もその一環である以上、それらが触れ合わないわけがない。
その触れ合いについても、自己が望む触れ合いであれば快と感じ、望まないそれに対しては不快とする。
それを望む自己、望まない自己によって、好ましいとするものを望んだ自己、好ましくないとするものを望まなかった自己によって、その自分自身が一人で快・不快を受け取っている。
他者、他物、自分以外のもの、自分以外に存在するものに、一体何の罪が? それらは、それらの「自己」として、そこにある・あっただけの理由で!