「民主主義の共同墓地」とセリーヌは云い、キルケゴールは「水平化」と云った。その意味は、現在の情況を見ればあまりにも顕著だ。「多様化」という言葉まで登場した。
寝っ転がりながらでも人と|つながれる《・・・・・》薄っぺらな物で、「共感」稼ぎ、いいね稼ぎ、承認要求の奴隷になって|関係《・・》し、これなしではやって行けないほどに依存することになった。
自分と違う意見には、「人それぞれだから」とフタをする。その意見について考えようとせず、自分と合う(とひとりで思っている)人のところへ急ぐ。当たり障りのない、「やさしい」言葉、きれいな写真に「やっぱりこの人が好き」と確認し、居心地のいいところへ、居心地のいいところへ行く。もっとこういう人はいないか、と探しさえする。
忙しいのは「自分にとって居心地のいいところを探す」ことだけで、頭の中はそれだけだ。自分は何故こうなのか、と考えることにもフタをする。それがいちばん肝心であるのに、それは考えないように、考えないように自分を持って行く。何しろ、探すのに忙しいからだ。居心地のいい場所探しに。
それが関係か? 人と関係していると言えるのか?
他人の記事などろくに読まず、ただ関係したいために、|自分にとって《・・・・・・》よければいい、という関係。
そして何故こうなったのかを考えない。「いいでしょ、こっちの勝手」である。〈STOP! 思考〉。
考えないように、考えないようにできている。そうさせる具材には事欠かない。自己喪失への、きれいに舗装された、便利な道をきみは行く。
「一人一人違う」と言いながら、その違いは認めない。自分の意見と違うために、居心地がよろしくない。そして浅墓な「共感」できる場所をまた探す。
やがて「違い」が明らかになり、きみはそれを目の当たりにする。ここじゃなかった… そうしてまたきみは探し出す。そうするきみ自身については、考えたくない。使い慣れたフタをして、タグをクリック! 自分に|合う《・・》、 |共感《・・》できる、居心地のいい場所だけを探す。
何故そうしたいかとする自分のことを考えないことには、慣れっこだ。
きみはきみ自身をおきざりにして、探し、探し、探し続ける。