いきものたち

 この頃、ある時間になると、家の前の桜並木の一角にカラスが何羽か集まって、アー、アー、と会議が行われている。
 何やら、ほんとに話し合っているようなのだ。
 東大寺のほうへ行くと、あれは東大寺だったと思うが、その大きな三角屋根にカラスの大群が集まっていた。

 夕方だったが、その空を見上げると、あっちから、こっちから、その屋根に向かって飛んでくるカラスの姿が見えた。
 一羽一羽、今日も無事だったか、おや、あいつの姿が見えないな、とでも、屋根の上で(百羽くらいいた)話し合っているようなのだった。

 すごいなあ、カラス。
 いつか、土手を歩いている時に、前を行く一羽のカラスがいた。
 首を傾げながら歩いている、そのカラスの後ろ姿といったら!
 思わず、微笑んでしまった。

 庭の、鹿よけの網やら家の外壁やらに、セミの抜け殻もよく引っ付いている。
 けっこうなセミたちが、ことしもかえったようだった。

 まだ暗い早朝に、「今、生マレマシタ!」というような声をあげて、鳴きだす音も聞こえる。
 と思えば、悲鳴のような声も聞こえる。
 7年間、土の中に暮らし、やっと地上に出て羽化しようとした時、ネコかイタチに見つかって、食べられてしまったのかと思う。

 生命の営み。
 ぼくなんかの知らないところで、間断なく、縷々るるとして続いている、営み。

 荘子は言ったよ、「わしが死んでも葬式なんか要らないよ。天がある、地がある。ほかに、何の装飾が要るのかね?」

 そんなふうに言える人間に、なりたいものだ。
 そうなろうと本気で思えば、それが自分自身の内なることである以上、それは実現できるだろう。
 まわりに、何を求めるでなく。
 まわりに、自己実現を求めるから、おかしくなるのだ。

 あ、死ぬんだな、とか、生きてるな、とか、かれらは考えているだろうか?
 大変だとか、死ぬのはイヤだとか、生きるのは苦しいとか、そんなことは考えていないように見える。
 
 ツマラナイ言葉でいえば、ただそのままであること。
 いいんだナ、それが。
 人間として、とか、カラスとして、とか、セミとして、とかの以前に。
 いのちとして。
 そのままを、うけいれているように見える。
 潔く。