たとえばこんな記事を書けば「いいね!」が付き、こういうのがウケるのか、とそんな記事ばかり書くとする。
ところがそのいいねの送り主は、ろくに読んでもしない。一体、こんな記事を書いた書き主は、「いない」読者に向けて書くことになる…
見出し人間が少なくない。タイトルだけ見て内容は流し目。
よくある「世論調査」にしても、こないだのなんかたった1000人である。答を得られたたったの1000人が、まるで「世」のように闊歩する。ばかげた話だ。
ネットに関してはまわりが見て、まわりから見られたものが(しかも多く!)「よい」とされる、というふうに見える。
少なくない人が「よい」と見られたいから、「よい」記事ばかり書こうとする。そして同じような内容のものばかりになる。
虚栄が、世を動かしてきた。虚栄心が人を動かしてきた。
いまだに分からないのは、あさましい「認められたい願望」についてまるで省みず、これがウケるとなればそっちへ行き、これは読まれないとなったらもう書こうともしない、その挙動だ。
AIやらSNSやらを開発したチームは、一つの人間の「進歩」を明確に表したろう。が、それを自分の満足のためにしか用い得ない百億の人間は立派に退歩した。すごいスピードで。その要素が元々あった、そこに肥料が撒かれ、ぐんぐん伸びて退化した。
「考える」、もってうまれたこの性能も、虚栄にのみしか使われなくなった。ぐらぐらの根っ子で、その根も見ようともせず、いかに形よく、見映え良く、樹形を整えようか── そのような木々が森になった。
まったく、こんなことを書いたところで、何ということもない。どうにもならない。どうにもならない、何にもならないことが、不意に愛しい。