むなしい作業

 大体が。そも。むなしいものだよ。書くなんて作業は、その最たるものかもしれぬ。
 言葉言葉と駆使した気になったって。むなしいもんだ、わかっていたろうに。
 わかっていた?
 確認した、というべきだろう。わかるまでは、楽しかったろう? わかって、確認して、むなしくなった、だよ。わからぬままなら、まだ楽しめたのに。モッタイナイねえ。
 精神的なことをいくら書いたって不毛だよ。毛の先ほども、何も言っていないに等しい。
 いいか、言葉なんて現実に役に立たなければ── 待ち合わせ、いつ、どこで、何時に、… 具体的なもの以外の文字は、何にもならぬのだよ。

 そして会ったところで… 具体的な話を皮切りに、それぞれが見ている世界、自分の精神… 心模様を開示するに過ぎん。いつだって、見ている世界の土台はそこだからね。淋しいものだ、何百億の人がいようが、たったひとりぽっち、ってなもんだ。
 いた人がいなくなり、いなかった人がまた始める。ひとりが終わって、ひとりが始まる。その繰り返しだ、ネットの何万の投稿も、ヒトの何千の歴史も同じことの繰り返しだ。

「五分で解る荘子」それをネットで見ただけで、もうわかった気になる人も少なくない。そして自分のブログなり投稿サイトに書く。何をわかったというのか、単なる受け売り、何も考えていない。読んでよく考え、初めて自分なりに理解し、それを自分の言葉で書いているものには滅多にお目に掛かれない。スマホの検索にばかり忙しいようだ。くだらないと思う。

 ここも投稿サイトだ。読む人と自分の接点を思えば、これを立たせているSNS、ネットのことを考えないわけにはいかない。

 せっかちなインスタントコーヒーは、飲むだけで充分だ。思考まで、3分クッキング化されては堪らない。ところが、安直すぎる仕方でSNS、ネットの世界は回っているようだ。それが当たり前だというふうに。ネットに限らず、この世界── 社会、も。