結論ありきの文章

 結論を書き手がもう分かっていて、それをただ羅列しただけの文章は、本でもそうだしブログでも読んでも来なかった。
 個人が投稿されたものに、三面記事的なものは求めていないし、この人が何をどう考えているのか、に興味関心は行っていた。

 書くにあたって、最初に云いたいことはある── が、書いて行くうちに思わぬ発見があり、当初の予定とは違った方向へ進んでいく、そういった文章は読んでいても分かる。こちらも読んでいて書き手と同じようなところで驚けるし、書き手と同じ思考の路地へ入って行ける。「考える」ことが愉しくなる。

 ところが、「見出し」、タイトルだけでもう内容が分かる記事が多く感じられるし、単なる知識、Wikipedia からそのままコピーしたようなもの、「これを書けばいいだろう」というだけの文章が多い気がする。一体、何のために書いているのか分からない。こちらで、そんなことは調べることができるからだ。

 個人が見えない。個人とは、自己である。自己とは、考えるものである。考えるとは、ある対象に対して感じた自分が考えることだ。それを文章化することは、その考えを抽象することになるだろう。捨象し、抽象する── 「ほんとう」に近づくために。(この「ほんとう」は、そのある対象から何かを感得した自分自身の内にしかないものだ)

 漠然としたものを言語化することが、言葉の意味だと思う。わかり切ったことは、特に意味を為さないし、関心すら湧かない。
 こんな書き方で読者に伝わるだろうか、を考える前に、自分自身がほんとうに考えているのか、がある。自己に自己が近づけているのか、がある。これをおざなりにした文章は、からっぽのたまごのような、形だけの曲線を描いたものに触れる気がする。

 だが、ヒトは元来からっぽなのだ。だからいろんなものを入れられた、入り込まれることができたのだ。それが、考える対象となるのだ。それを度外視して、どんな血と肉の通う文章が書けるだろう。何が「伝わる」「伝える」ことになるだろう。
 そもそも、何故に書く、まして投稿までするか、ということについて── 自分の場合、一緒に、共に、考える人を求めていた、と言える。そしてそういう人は、滅多に更新なさらない。あまり人目につかぬところにいらっしゃる。