邪気… 大いなる邪気を感じて一度辞めた某投稿サイト。出戻って一ヵ月が経ち、再びげんなりしている真っ最中、この嫌気差しはどこから来ると考えれば、そこに投稿する意味の無さにある。
無意味と感じる内容を一々挙げれば、まず自分の作業── れいによってイイネやフォローが来ればその送り主の記事へ行く。一応義理を感じるから、こちらもそのお返しをしなければという義務感に捕われて。ところが、全く魅力を感じない記事が多い。こうすればモテる、占い、この町の美味しい食べ物紹介、ゲームのこと、お役立ち情報。
これでも義理は重んじたいから、お返しのイイネ、フォローバックはするべきだろうと思い、がんばって幾つかの記事から「イイと思えるもの」を探し、そこへお礼をしたいが、どう見ても「イイ」と思えるものがない。イイと思えないものにイイネは送れない。フォローは書き手のファンになるようなものだから、支持したい、これからも読みたいと思える書き手をフォローすべきだと思う。が、そうでないものにフォローバックもできない。
そうして不義理を重ねる。そしておそらく、相手はこんな考えることなく送ってきたのだろうと感じる。ただの数集めだろうと思う。
毎朝、このサイトを開き、それらの方々の所へ行き、またメールで「これだけの人からイイネが来ました」の一つ一つを消していく── こんな時間が無意味と思う。
れいによって、何のために書いているのか、に又立ち戻ることになる。自分は数集めのためにやっているのではない。また有名!になるとか、売りたいとかいう目的もない。書きたいから書く、読みたいから読む。それだけでいいのだ。心底そう思う。書きたいことが、うまく(それは自分にとっての内的なものからの技巧的なものだ)、ふさわしく「表現」できたら、もういい。結果はどうでもいい、それは自分と無関係なところにあるものだ。
だから自分は進歩しない。どうしたら読まれるかという工夫をしない。したくない。浅さも深さも同じ地上の話だ。四方を見て、こう書けばいいかと技巧するのでなく、技巧しようとする自分のことを考える。思う。こいつのことを表に出すことが自分にとっての書くことだから、いつまで経っても特に変わらないことを書くことになる。
いくら変わらぬとはいえ、かつてここに書いたものを見直し、少し書き直し、別の投稿サイトに送るというのも、意味の無いことに思えてきた。ネットは、どこも大差ない。書き易さ、使い易さの違いだけで、泳ぐ魚は似たり寄ったりだ。読む人は変わるかもしれないが、書く自分がつまらない。つまらなさには、意味の無さがある。意味の有る無しは、自分が感じる以外にない。
何度も書いてきた繰り返し、SNSは承認要求に溢れ切った場所である。そこで自分の書いたものを読んで欲しいというのは、ないものねだりに等しい。自分とかなり近い、接点があって、書く内容の土台に同じ匂いがするなら、喜んで読みたい。喜んでイイネしたい。だが、そういう記事は滅多にお目に掛かれない。むろん、誰だって、この世に一人として、同じ人間はいない。ある点で同じだったとしても、別の点で全く違う。カンペキを求める自分自身の問題だ。
相手を見、自分を見たところで、お互いに何を見ているか。相手と自分の間にあるものを見ている。直ではない、間だ。間に浮かぶものを、お互いに見る。それが相手の内であり、こちらの内であり、内にあって間にないものであっても、それが間をつくる、間にあるものをつくる。
お互いに、それを見たいものだが。こう云っている自分も、ほんとうに見れているのか。
間を見ろという押しつけ。こんなこと言われたら、相手だっていやだろうよ…