それにしてもアッというまだ。一日、一年、一生。かえりみれば、二十歳位までは時間の粒が細やかだったが、それからは大雑把な雨になった感がある。
 まだ時間が近いせいか、もっと遠くなると克明に、いろんな角度から観ぜられるようになるのか。

 あまりに遠くなると、そのまま忘却となりそうだ。それでもヒョンなきっかけから何の根拠もなくフラッシュバック、想起せられ、それについて考える時間が、知らない自分が必要として考え始めた時、「今」からその対象が初めて肥大化するものか。

 それに迫っていく、距離ができ、初めてこちらからそれを凝じっと見つめようとすることができる── それまではただ流れの中だ、川から出いでて岸辺に身を寄せ、初めて流れの全体が見渡せる。それも視野の限りを越えないが。その先は想像になる。

 中に在っても想像はできる。だがそこに身が入っているからには水面が近すぎる。同じ想像をするにしても、立つ位置が異なれば見える景色も違ってくる。

 その前に、どこに注意が、視線が行くかの違いがある。同じ景色を見ていても、お互いにまるで違うところを見ている。畢竟、同じ時間と空間を共に過ごしても、全く異なった記憶が出来上がる。

 どこに目が行くか、何故そこに目が行くかは、生まれもっての気質だろう。その質には、何億年と経てきたヒトの細胞、歴史がその体内に刻まれた作用に依るだろう。
 あらゆる人格、あらゆる性質、数え切れぬ「ヒト」の、今まで生き死にを繰り返してきた「ヒト」としての、自分の知らない長い時間と歴史がこの一体の身体にある──