子どもが登園拒否しそうになった時の話

 私には、一人娘がいる。
 その年、五歳になった彼女は、父も母も働く家庭にあって、必然的に保育園に通っている。
 毎朝八時半頃、父は子を自転車に乗せ、園まで送り、そのまま仕事場へ向かう。夜は母が、六時前に迎えに行く。
 土・日、祝日以外の、彼女の居場所は、家庭ではなく、保育園である。
 毎日九時間以上に及ぶ集団生活のツケが、回ってきたのだと思う。
「保育園、行きたくない」
 いつものように園に送りに行こうとした時、泣き出されてしまった。

 私は困った。子の気持ち、わかるつもりなのである。
 個を、あるていど殺さなくては、集団のサイクルは回っていかない。それは、自分一人でやりたいことよりも、みんなと一緒にやることを、優先させるということだ。私自身が、登園拒否児でもあった。
「そうか、行きたくないか」

 と言いつつ、私の足は玄関で靴を履いている。九時までに会社に着き、タイムカードを押したいのである。そして言う、
「うん、まあ、行こう」
 奥の部屋から、出勤準備中の母が追い打ちをかける。
「まだグズグズしているの!」
 ぐすんぐすんと泣きながら、子は靴を履き、父と手をつないでマンションの階段を降りる。
 自転車置き場に行く途中、子は何度も座り込み、
「行きたくないよう、わーんわーん」
 と、はげしく泣き出した。

 父は、それでも非情に、先に自転車にたどり着くと、子も泣きながら走ってきた。
 そこで、また座り込み、ひっくひっくしながら、しゃがんで砂をいじっている。
 私も向かい合って、ヤンキー座りになって途方に暮れた。会社も保育園も、なんだかどうでもよくなってきて、このまま自転車置き場で、ずっと二人で座り込んでいようと思った。
 そこへ母が通り掛かり、私たち父子を見つけた。
「まだいたの?」
 と、声をかけてきた。
「行く」
 すっくと、子は立ち上がり、自転車の子ども用座席に乗ろうとする。彼女にとって、父よりも母の方が恐いのだ。

 園に着くと、下駄箱のところでまた泣き始めた。
 しかし、ここまで来たら、もう行ってもらおう。
「ミツル(私のこと)が働かないと、お金、なくなっちゃうんだ。トモミ(子のこと)が保育園に行かないと、ヨシコ(妻のこと)もミツルも働けない。そうすると、トモちゃんにオモチャを買うこともできない…」
(注/ 家では、「お父さんお母さん」という呼び方をさせていなかった。前話に理由記述)

「わかってるよお」
 と、涙をふきふき靴を脱ぎ始めた。ここぞとばかり、父はそれを手伝い、だっこをして、きりん組の教室へ向かう。
 ロッカーの前で、子は座り込み、こんな所に来たくないという無言の抗議を続けている。
 父は担任におはようございますを言い、
「すいません、今日、保育園に行きたくないと言って、あそこでいじけているんですけど…」
 保母さんは、すぐにトモミのそばに駆け寄って、何やら話し掛けている。この保母さんにも五歳の子がいて、市内の別の保育園に通わせているという。やはり、「行きたくない」と、時々言い出すらしい。

「すいません。明日は、休ませます」
 ほんとうに休ませることができるのか、分からないまま、父は覚悟を決めて言い放つ。まあ、会社には仮病を使って休めばいい。
「そうですね…今日一日、様子を見ましょう」
「よろしくお願いします」
 頭をさげて、教室を出て、仕事場に向かう。なぜか、涙ぐんでいた。自転車を思い切り走らせて、タイムカード、八時五十九分。
 昼休みに母の会社に電話して、子がそうとう保育園を嫌がっている旨を伝え、
「体調も良くなさそうだし、少し休ませようよ。会社には、『子どもが登園拒否し始めた』って言ってさ」
 笑いながら言うと、母も同意した。彼女にも、中学を登校拒否したキャリアがある。

 結局、翌日は母に会社を休んでもらい、父が仕事に行った。
 その日、帰宅して、子の顔を見ると、落ち着いた表情になっていた。
 保育園に行った日の夜のトモミは、どことなく疲れてボーッとしている感じで、漠然とイラついている様子だった。それは、自分の家にやっと帰れて、さて大好きなお絵描きをしようとしても、すぐに寝る時間になってしまうことが、彼女に不本意だったからだろうと思う。

 自分のやりたいことをやって、一日を満喫した日の、子どもの顔はいい。
「明日も、保育園休む?」
 聞くと、
「ううん、行く行く!」
「え? 休めばいいじゃん。ムリするなよ」
「いやだ! トモちゃん、保育園大好きだもん!」
 おいおい、なんだよ、もういいのか。
 その後、何事もなかったように、子どもは一日も休まず登園を続けた。しかし、父は内心で覚悟をしている。
 もし、今の生活が、トモミにとって無理のある毎日であれば、そのツケは必ず回ってくるだろう。体に表れる病気かもしれないし、性格に表れるヒネクレであったりするかもしれない。
 それはそれでいい。病気も何でもOKだ。無理をさせた代償は、よろこんで引き受けよう。アナタの父親は、この私なのだから。アナタが何か問題を起こしたら、誰のせいでもない、私とヨシコと、アナタの問題として、向き合っていくしかない──