「荘子」のやさしさ

「かの列子は、風のまにまに乗り遊び、ひょうひょうとして楽しそうである。だが、その列子も、足で歩く煩わしさから解放されているとはいえ、まだ頼みとする他者── 風を残しているのである」
(荘子、逍遥遊篇六)

 しばらく荘子を読んでいないが、ここ数ヵ月、ずっと残っている言葉がある。それがこれだ。
「まだ風を残している」。
 他者に自己を頼る… その「頼る」ものとして、まだ風を残している。
 列子も、あんなに楽しそうだのに、風なくして自己を楽しめない。
 他人の評価や他人の目ばかりに自己の立地点を置き、そこから自己を楽しませる、その脆さ、偽りといっていい、欺瞞に満ちて、最初、原初にあった筈の自己を忘れ(それはなかったのだが)、仮面をつけて皆と遊ぶ舞踏会…
 脆いものだ、他者なくして楽しめない自己!

 荘子は、そうした所から身を引いたものだ。キルケゴールの「ほんとう(のキリスト教会)」にも通ずる。「|道《タオ》」。ブッダの説いたことにだって通じてる。
 ところがどっこい… かのソクラテスの生き方、ブッダの説いたこと… それらの、彼らがどんなに今、生きていないだろう!
 ものの見事に、なかったも同然だ。カケラさえ、残り香さえ綺麗さっぱり消されたかのよう… これを、悲しまずにいられるか、いや悲しいなんて甘いもんじゃない、とんでもない、通り越す、嘆くこともままならん。
 きれいサッパリ! 跡形もなく! そうじゃないと希いたいが。

 忘れるってのは素晴らしい人間の能力だ、何でもかんでも忘れちまう… たった五年前の〈非常事態宣言〉のことも、忌わしい事件のことも、あの時の身体的痛みも、誰が死んだことも… 自分が生きてたことさえも。
 いいんだそれで、いいも悪いもない、そうやって変化、…進化も退化も同じことだ、して来たんだ、何万年も。

 ここに一人の馬鹿者がいるが、こいつはいつ死んでもいい生き方をして来たそうだ。いや、寧ろ死を歓迎したいと言っている。その際の唯一の望みとしては「平穏に」!
 … 贅沢なこった…
 いつ死んでもいい? ちと違くないか、彼が言う、「だって死んだことがないのだから」。死んだこともないのに、死んでもいいって、一体何が「いい」んだい? と。
 そう、恐れ、だ。畏れ、といいたいが… 死は最後の友達だ、自己と自己の関係における… なぜって、そこから「世界」があったのだからね。
 だから生ばかりを追い求め(しかもなるべく|いい《・・》生を!)、死を忌むことを片手落ち、不完全なアタマに更にくっついた|かたわ《・・・》の手足だと言い続けて来たんだ。

 死を受け容れたくない? 死は敵だ? どこに目ン玉くっつけてんだ… 生と死、ふたつで生命、ってんだ。ふたつで! ひとつだけじゃないんだよ、生命ってやつぁ。
 成り立たんないんだ、あり得ないんだよ…
 死なくして。
 こっちだって死とは何回も、自分じゃないが、親しい人の死が。だから何だってんだ糞野郎、とんでもねえ死だってあった!
 だから何だってんだ… ああ、荘子の話だった、死の哲学者と呼ばれ、「|道《タオ》」を説いた… 説いた? 説いた、ということにしておこう、ほんとのことだ。
 あれも「実存」ってものだったんじゃないか。

 実存、その意味はこっちにだって分からない、が、わからないもの、こいつをわからない、わからないものとして〈受け容れる〉…〈生きる〉と換言してもいい… 他も含め、自も含め! おんなじこった、そうして存在を続け…続けること、たとえ死してさえそれ続くこと、死は死だ、生は生だ、だが一緒なんだ、だいじにするんだ、死を。だから生を!
 実存、こいつは解らない、この解らない、が、言えば「実存」なんじゃないか。これをモトに生きるってことが、… 言えば、「主義」、何しろ、言えばモットーになる、モットー? 何でもいい!
 そう、この、わからない実存ってやつ、わからない、このわからないを生きることが実存ってやつそのものじゃないのか── このままに、このままに。