ひとりでいる間は、その時間は、人は完全であるかもしれない。ひどい考えや想像、想起に苦しんだとしても、それはひとりであるからこそ出来るわざで、彼を苦しめるもの、それが彼女であったとしたら、その彼女に実際会ってしまえば、それまで彼を苦しめてきた張本人であるはずの彼女に会ってしまえば、また別の物語が出来るはずだからだ。
少なくとも、それまで「ひとりでいた時間」と変わるだろう。言えば、「不完全」になると言えるだろう、彼女が目の前にいることで。それまで「完全に」苦しんでいた完全さが、いわば損なわれるのだ。
これは何も彼や彼女といった個的なものでなく、「人」と括ってしまっていいことのように思える。とにかく人生は一人芝居であり、ひとりで苦しむ素材を自分から見つけ、ひとりで喜び、ひとりで悲しみ、ひとりでそうしている── これが生の実態のように思えるからだ。
ひとりであれば、ひとりの時間が永遠に(といっても死ぬまでだが)続きいた場合、おそらく彼は自分の想念の中でしか生きていない。そしてそれは正しいことなのだ。なぜなら、他のひとりひとりも、自己の想念によって在るからである。「生きている」意識がなければ、どんなにお前は生きていると言ったところで、当人は生きていないのだ。
意識と想念は、大差ない。医学的には大ありだろうが、いずれにしても本人が「自分は死んでいる」という想念・意識に固く閉ざされていたなら、まわりがどんなに否定しても本人はそれを拒むだろう。本人が「死んでいたい」と思う、強い意志も鉄のように働くだろう。
多かれ少なかれ、または場面設定、人が変わって、このような「鉄の意志」「願望」「こうありたいとする自己」に捉われていない人間がいるだろうか?
「軟弱な意志」「無願望」「どうありたいとしない自己」も捉われている人である。その意志、望み、自己、が、自己に向かい、自分のうちでおさまっている間は(ひとりでいる時間)、特に何ということもない。まわりには何の影響もないし、知らない。ところが、この意志、望み、自己が、他者に向かう時── その意志、望み、自己が、その向かった他者と同じ意志、望み、自己であれば(他者がそれをもっていたなら)何の問題も生じない。ところが、けっして人は、誰かと同じにはなれない。なることができない。ひとりであるからだ。
部屋の中にひとりでいる、ひとりではない。そのひとりが、ほんとうにひとりであるというのは、まわりにひとりとして自分と同じ人間がいない、ということだ。
誰もが、結局ひとりなのである。そうして冒頭の話に戻せば、ひとりであるというのは、何もまわりによって自己が「揺らぐ」ことがない。揺らしているのは自己である。迷いもない。迷わす者は誰もおらず、ひとりであるからだ。悩ます者も、苦しませる者もいない。それらをしてくるのは、自己以外にない。人生が一人芝居であるとしたら(多くの場合がそうだと思うが)、まさに完全に、完全な、それら、迷い・悩み・苦しみ、をみごとにひとりでやってのけるのだ。
「他者のいる場所から離れた場所」にいる時間は、ひとりである。そこにいるひとりは、まわりに誰もいない。いるとすれば、自己の頭の中だけである。過去の想い出、未来、明日のことを考える。その考える、想像する(過去も未来も、今にない以上、同じ質をもつものだ)、これは考えるというより想念、思念、という類いのもので、そこに願望や意志、こうしたいとする自己が働く。
この働きから、ひとりでいる、その時間が苦にも楽にもなる── その苦や楽を持って来るのは自己以外になく、誰が持ってきているわけでない。
自分から、悩み、迷い、苦しむ、しかも「完全に」の、これが故である。
そうして、きっとそうせざるを得ないのだ。
ここに、自由、というものも大いに介入してくる。いや、介入する前に、すでにあったものだ。すでにあったもの、自己のうちに既にあるものを完全に使いこなしている時間。理想を持つことも完全に出来、とことん絶望することも完全に出来、またそれをすることもしないことも出来る。そのジャマをしてくる者は、誰もいないのだ。
おそらく、生きるということは──…