この世で最初の罪は何だったのだろう?
アダム一人に代表の責を負わせるのは酷である。
殺人? 自殺? 人を傷つけること? 自分を傷つけること?── 否、否、「集団」がつくった罰、であると思う。
この世で最初に罰を受けた者。集団のつくった規律に則らない行動をとった者であったろう。
思想というものの、およそなかった原始の頃は、行動のみが存在証明、行動が存在であったろう。
犯罪は、常に「してはいけないことをすること」に根拠をおいているだろう。
まったく、この世で、人間たる種族のうちで、最初に罪を犯し(罪と見なされ)、然るべき罰を受けた者は誰だったろう、その罪状はどんなものだったろう。
言葉のない時代には、罪も存在しなかったかもしれない。なぜなら思想、法規は「こうである」という看板を用いなければ、路上に立てないものだからだ。またはそれに類する、動物的な、暗黙の了解── 「これはしてはいけない」了解が、無言のうちに立法化されていたろうか、いやそれは考えにくい。一人一人、「これはしてはいけない」程度が一定でない、許容、限度の差異がある以上、「してはいけないこと」は明確でないと、何でもありになるからだ。少なくとも罪は存在せず、したがって罰も存在しない。
そもそも罪や罰は、存在するものではない。存在するのは、それをする人である。その人にそうさせるのは、その人の内面が行動言動になって現われるだけである。罰はその対象を求める。候補者が現れれば、喜んで罰はその素材を吟味する。罰は粗を捜す。候補者は、マグロの解体ショーのごとく俎の上で素行や思想、人格性格、精神をさえ鑑賞される。〈法〉に則り、〈人権〉に配慮し、〈公平〉に〈過誤のないように〉、(罪をつくったのが一人の人間であるなら)一人の人間が評価裁定される。
裁くということの云々について書こうとしたのではない(善悪というのは絶対的にある筈であるから、あからさまな逃げ道としての精神鑑定とか、犯罪者をかばう、あくまでも保身のために、商売のために、徳などより金稼ぎに明け暮れ立ち働く弁護士の存在には腹が立つが、それも必要なんだろう、公正さ、客観的に、〈正しく〉あるためには!)。
この世で、最初に「罪」を犯した人間は、その罪はどんなものだったのか? これについて考えたかった。
「食べてはいけない」リンゴを食べたのが罪であるなら、しかしこの場合、のちの罰を負うことによって罪が初めて罪となったのだと思える。のちの罰がなければ、罪と認識さえできない。
この「食べてはいけない」発令をしたのは神であるという。人間の中に神も悪魔もあるとすれば(人間が、個人がただ変化する、ということだと思うが)、地上では、神というのはおそらく天界にいらっしゃる筈なので、地上では人間がつくった法であるだろう。
絶対にこれをしてはならない、この絶対の創造主は、一体誰を絶対の相棒に、絶対を絶対化する、それなくして絶対化もできなかった片割れを、どのような判断のもとに採用したのだろう? または、そうしなければならなかったのだろう?
人類で、最初に罪を犯した人間。その罪のなりたち、およびその罪状を知りたいと思った──「神」的なものが必須であることはわかるが(何しろ「裁く」のだから!)。
特に何という話でもない、いつものように、だから何だという話でもないが。