「気」というのは、確かに、在る。
中国の武術とか、医学の方法とかじゃなくて。
自分が感じる、気。
人からであったり空からであったり海からであったり、単なる空気からであったり、ともかく何かから感じる、気。
でも、その、気、を感じているのは、紛れもなく、自分自身。
気。
たとえば、ブログを通じて初めて会った、あるひとは、すっごい気をもっていた。
いや、ぼくが勝手に感じただけなのだが。
喫茶店、居酒屋、カラオケとか行ったけれど、ぼくは終始そのひとの気に圧倒されていたし、その気は自分に必要な何かだと思えたし、その気は大きく強く感じられて、そのぶん今もぼく自身の中に根づいている感じがするのだ。
そのひとは、まったくの自然体だったと思う。
空からは、何年か前(だいぶ前か)「しし座流星群」を、寮の避難場所で新聞紙敷いて、ひとりで仰向けになって見ていた時、あ、ひとつ、あ、またひとつ、と流れ星を見ているうちに、何かパワーをもらった気になったというか。
これも、気、だった気がする。(ややこしい?)
海は、深い気がした。
やっぱりだいぶ前、八丈島へ向かう船のデッキから、夜中、海を見たのだ。
夜の海って、なんであんなに恐いのだろう? ほんとに真っ暗で、しかしもちろん、海はさざめいていた。ザッパーン、ザッパーン、しっかり、大きく、とんでもないような気がした。
ずーんと、自分の体内の芯のようなものに響いて、さらにもっと深くイケてしまいそうな、それが恐かったのだが、強い気をもらった気がした。
さらに言えば、メールとかをもらって、そのひとの気も、頂いている(頂いていいのかな)ような気が、やはりこれも確かに感じられる。
思い過ごしや思い込みではないな、と判断することもできる。
基準はない。でも、あるのだ。
それは、あくまで、感じるもの。
そして、ほんとうに、ありがたい、と、おもう。