今という時

 ロシアとウクライナで、いささか乱暴な言い方になるけれど、無駄、無駄としか言いようがない戦争、人と人が殺し合うという、これほどバカげたことはないとしか言いようのない、こんなことが今、現に行われているということ。

 戦争が始まってから、しばらく、何も書く気がしなかった。
 いや、書く気はあったが、ぜんぶ、頭の中が、今、行われている戦争に、染まってしまった。
 今、自分のやるべきことは、こんな、書くなんてことじゃない。

 何を書いたところで、どうにもならない。
 ニーチェもキルケゴールも、何の役にも立たないじゃないかと思った。

 しかし… 僕には僕の生活が、これでもあるし、戦争に対して、何ができるわけでもないけれど、今、酷いことが行われていることだけは忘れまい、と肝に銘じつつ、僕は僕として書き続けようと思い、こうして書いている。

 四六時中、戦争のことばかりに捉われ、憂鬱になっているわけではない。
 野球のオープン戦のダイジェストを見たり、よからぬサイトを見たり、好きな音楽を聴いたり、本を読んだり、家人と笑い話をしたりもする。

 でも、やっぱり今、これだけは、忘れてはいけない、忘れたくないと思う。
 今、戦争が起こっているということ。
 そして、こういう、「社会のなかへ」向けて何か書く時、戦争を止めるということ以外に、何も書くべきことはないと、今も思えるけれど、しかし、とにかく、書こう。

 戦争、諍いというものに、誰が悪い、というふうには、捉えたくないと思う。
 善悪のモノサシで言うならば、「人間であること」が、「悪い」のだと思う。
 よく、「人間のすることじゃない」とか言うけれど、どんな極悪非道な行ないも、人間がしていることに違いない。

 今、僕の、ない頭で言えるのは、人間の、おそらく誰もが持つ悪魔的なもの、それが権力を持った人間は、多くの人を巻き添えにするということ。
 そして政治的な権力の所有者には、誰もがなれるわけではないということ。
 人の持つ「悪」が、「善」より上回ってしまうこと。

 どうして、善が、引き出されないのだろう? そして善も悪も、時代によって変わり、人によって変わること。
 僕は、人間が怖い。それは、自分が怖いということ…

 最近、町を歩いていて、「ナメられたくない」というような目をした人が、多くなったような気がする。
 たまたま、そういう目をした人はインパクトがあるので、印象に残るのだとは思う。

 でも、その目は、要は「人をケおとす」ことを当然だとする(したい)ような、弱肉強食を地で行く(行きたい・行かざるをえないとする)ような、動物のような目── そんな目をした人が、多くなったような気がする。

 しかしその目は、怯えているように見える。
 人をケおとすということは、自分がケおとされることを、知っているからだろうと思う。
 何か、あわれ、に感じる。そのような目をした人は、どうしてそんな目を持つようになったのか、と、僕は妄想・想像することになる。

 すると、僕自身のことを考えることになる。
 通りすがりの、何の関わりもない人を、きっかけにして。
 
「ナメられたくない」。そのために、他者を威嚇する。
 自分は、お前らより、ツヨイんだゾ、マサッテるんだゾ、と、からっぽの虚勢を張る。
 ひとつウソをつけば、雪ダルマみたいに積み重なって、肥大していく。

 虚を虚で埋めようとするから、本体も心も、アトカタもなくなる。
「そうしなければならない」必然、虚勢を張る人間の、「ナメられたくない」欲求は、何なのだろう?

 ミエ、テーサイ、ジソンシン。
 それだけのために、そんなにカラッポに、それ以上のカラッポに、どうしてなろうとすることができるだろう?
 人とくらべて、優だ劣だと決めつけたくて(しかも自分が「優」でありたいだけのために!)それが何になるのだろう?
 独占欲、所有欲。権力、民…

 うん、やっぱり、戦争のことが頭から離れそうにない。むりだ。
 昨日と今日、ウグイスが庭に来て、ホー、ホケキョ、を練習している声がした。まだうまく鳴けず、でも、それが可愛かった。

 きっとウグイス、誰に教わったわけでもなく、「正しい鳴き方」を知っているんだと思った。
 ん、これは違う、これも違う… 「正しい」鳴き方に、近づこう、近づこうと、ウグイス、一生懸命、やっていた。
 きっと、人間も…

(2022.3.18.)