ドストエフスキーは「苦悩を愛する」と言った。
だが前記のような事象の場合、彼は「不安を愛した」のだ。
言い換えれば、不安をする自分を愛したのだ。
彼は手放せなかった。
老人の手のみならず、彼自身を手放せなかったのだ。
とすると、この場合、苦悩は自己内の煩悶、ひとりのプラレールをぐるぐる回る懊悩にも似て、まだおとなしめにみえる。
だが不安というものは、直接に、その対象を必要とする怪物のようである。
一つの不安が二つの不安、三つの不安となり、イモヅル式に増えていく。
果ては、この世は不安に埋め尽くされていくようにみえていく。
ところが、それも一つの自己愛なのだ、と言って差し支えないだろう。
なぜなら、誰も彼に不安を強要強制しなかったからだ。
いえば、彼はひとりで不安になったのだ。
とするならば、苦しみや憂鬱、心配や不安、自分を苦しめるそれらのものは、人ひとりひとりが、みずからそれを引き受けている、ということになる。
一人芝居。無観客のひとりサッカー。
そして、そうしているのは、自分自身であることに、あまり目を向けようとしない。
「こうさせられているのだ」と、多くの人は自分以外のせいにする場合が多い。
老人は、自分で歩ける力があったのだ。それは、赤児にだって備わっている力である。
不安も安心も、ひっくり返せば同じ紙である。
不安は安心を探し、安心は不安を探す。同じ足元で。
悲劇というより、喜劇ではないか。
信ずるということ。結局、自分を信じるということだ。
自分以外の誰かを信じたとしよう。だがそれは、キルケゴール流にいわせれば、「その誰かを信じた自分自身との関係」なのだ。
そう、自分と自分との関係なのだ。
神との関係も、同じことだ。
ひとりひとり、この世に生まれたものは、それ自体で生きていくに足るちからが、ある。
それが自然というものだ。自ずから、然り。
そうある、「在る」ものだ。
先入観、前の人がそうしたからといって、レゴブロックみたいに個々人をそれに当てはめるべきではない。
頭ばかりがでかくなった宇宙人。
無為自然。
無為自然。
ひとりひとり、ひとつひとつのいのちを、要らぬ色に染めるのは止めよう。
そのまま。
そのままで、十分なのだ。