欲望はほんとうに果てしがない。それをほんとうに知っている者は、満足を満足と思わない。
満たされれば、ひとつ終わってしまうことを知っているからだ。
その上、ふたつ、みっつと増えていくことを知っているからだ。
だから不満足も不満足とも思わない。「自分はこれだけやったのに、何の評価もされない」と嘆いたり、見返りも求めることがない。その根源に恣意が、れいの欲望があることを知っているからだ。
そのような人は、しかしほんとうに生きていると言えるのだろうか。そも、生きるというのは、本人が生きていると思えば生きているのであって、
〈 人間は二度死ぬ。最初精神が死に、次には肉体が死ぬ 〉
との言葉があるほどだ。
まわりが、どんなに「お前は死んでいる」と忠告したところで、本人がそう思わなければ、死んでいることにはなり得ない。
「砂糖は甘い」といくら進言したところで、甘さを知らない者には何のことか分かったものではない。
秋の虫に、春の暖かさを知らせたところで、知る由がない。
生きることは、そう考えると、本質的にかなりひとりよがりなものだ。
ひとりで、あれやこれやと小さな現実に大きな夢想の翼をつけ、雲の向こうまで飛ばせてみせる。
そのきっかけが取るに足らない小石であっても、つまづいたが最後、何も思わぬ小石に宿命的な運命を見、ひとりで煩悶苦悶する。
ただ、そこに小石があっただけなのに。
だから痛苦も快楽も、自分でつくりあげた創造物である。
本人、すっかりそれに囚われてしまえば、自分そのものが苦楽そのものであるように、それと同化してしまう。
喜びも苦しみも同じ素材のものなれば、もう、そんなことに囚われるのはやめようではないか。と己に言いたい。
どうせつくるものであるならば、つくり憂い顔より、つくり笑顔の方が、まだ、いいのではないだろうか。
寝てるふりをすると、ほんとうに寝てしまうように、愉しいふりをすると、ほんとうに愉しくなることがある。
不満も満足も自分でつくっているのだから、何もつくれないものはない。
朝露に濡れた葉の先に、しずくが一滴、陽にあたる。
竿の先にとまった夕焼けに染まる赤トンボ。きれいなものではないか。
満足もせず、不満足もせず。ただ、あるだけ。生命も、ひとつ、あるだけ。
ほかに、実際のところ、なにがあるというのだろう。あれこれ細工をする必要はない。
加工された木の器より、ただそこに立つ原木の美しさを見つめてみよう。
心は受動的でありながら、つけどころを狙う、したたかな目を持っている。
東にあった座位を、西に変えてみるだけで、まるで世界が変わって見えてしまう。
それほど軽やかなものであるのなら、どうして何も変わらないことがあるだろう。
どうして心のために、この身にまで苦しみをもたらす必要があるだろう。
── 冒頭へ戻ろう。欲は、果てしがない。果てがないということは、果てがないと決めることで、果てという限りをつくっていることになる。
つまり、果ては、実は「ある」ということになる。
はて、私の欲は、これからどこへ向かいまするやら。
眉間のシワをほどいて、微笑をもって、この足がどこへ向かうのか見ていよう。
見たくなくても、見ていよう。