不安

 漠然とした不安、という言葉があるけれども、不安というのは、漠然としているものなのだ。
 いいかえれば、漠然としているから、不安なのだ。

 自分にかぎっていえば、身体のまわりに「不安」という空気がまとわりついて、それはとりとめがないくせに、身体ぜんたいを確かに包んでいる、という様子なのだ。

 特に、顔。頭、といっていいかもしれない。
 シルヴィア・プラスが、「わたしの顔には、頭からさかさまになったコップがいつも被せられていて、わたしはいつもそのなかで自家中毒を起こしている」という意味のことを云っていたけれども、そんな気配を実地で感じる。

 身体のまわりに、見えない、おもい宇宙服が、始終、着せられているようである。
 あの丸い、頭から被るもののなかで、金魚みたいに口をパクパクさせている。

 しかし、といって、この感じは、今にはじまったことでもないのだ。
 10歳の頃にその予兆は感じられていたし、20代で現実味を帯び、30であきらめ、40でまたやって来たという具合なのである。

 まるで今がいちばん大変のように自分でも思えるけれども、いつも、その時その時、いちばん大変なはずだったのだ。
 何も、今を、そんなに絶対視しなくてもいいだろうと自分でも考える。

 しかしまったく、自分はこれからどうするつもりなのだろうか。
 それも、今までにあった。どうなるのか、先の見えない状態。しかし、いわば、これは得意分野なはずなのだ。

 しかし年齢というものが、おもく感じる。
 しかし、10代もはじめての10代でおもかったし、20代は20代ではじめての20代でおもかったのだ。
 今ははじめての40代だから、今までと違った感じ方であってもそれは当然であるだろう。

 はじめて、こうなっている。

 こう書いてきたら、不安も少し、薄らいできたようである。先のことは、知らない。そしていつも、知らなかった。
 あるのは、どうしても、「今」だけだった。