もうダメだというような時

 もう、どうなってもいい、と自暴自棄になる時。

 言葉あそびでもしてみよう。

「どうにでもなれ」と「どうなってもいい」は、ちと違う。

 どうにでもなれ、は、まだ川の流れに身をまかせる意味がある。
 が、どうなってもいい、は、捨て身の意味がある。

「どうなってもよくない」が前提にある。だからどうなってもいいと思えるのだ。

 どうにでもなれ、は、まだ、どんぶらこどんぶらこと、桃が川を流れてくる情景が浮かぶ。
 桃太郎は、捨て子だったのかもしれない。
 だが、おじいさんだかおばあさんに拾われ、育てられるのだ。

 どうなってもいい、には、そんなのんきな余地がない。
 時に、人を巻き添えにする。
 自分を、捨ててはいけない。

 どんなにダメな自分と思っても、生きてる価値なしと思っても。
 世界は細かな糸で繋がっているという。

 そこに、存在してダメなものなど、ないのだという。
 頭の中に飛び込んで、窒息してはいけない。

 捨て身になることは、この世を狂わしてしまう。
 目に見える美醜、悪徳や醜悪、そんなものより前に、生を受けていること。

 生あるものには、意味がある。
 目に見えるものなど、小さなものだ。

 その前に、もっと大きな、微妙で精緻な糸がある。
 この世に生まれることは、そういうことだ。

 自分でも知らないうちに、一本の糸になっているのだ。
 眼には見えない。でも、大切な糸なのだ。

 それなのに、切ろうとしてはいけない。