夢と現実

 ここ連日、寝ている夢の中で、よく文章を書いている。
 いかに、書くことに心が捕らわれているか、夢が知らせてくれている。
 たいていは現実と同じで、うまく書けない。
 ひとつの言葉尻にこだわって、この表現はまずい、どの言葉、流れがしっくり、ふさわしいのかと、夢の中でも彷徨っている。

 が、昨日の夢は、「ああ、これでいいのか」と、何かフッ切らせてくれるような夢だった。
 その夢は… ぼくが出てくるのだが、「夢」という生き物の世界、その世界から抜け出ることのできない、夢の世界という世界が生き物で、いわばぼくはその体内にいるという夢で… こう言うのだった、「そのままでいいじゃないか」

 何ということもない言葉だが、その夢という生物は、そのようなことを言っていた。
 で、夢の中でぼくは喜んでいたのだ。
「自分以上になろうとするから、いけない」そんなふうにも、夢は言っていた。

 それだけで、スラスラ書けるようになったかというと、夢の中ではよく分からない。
 ただ、とても気軽になった。軽くなると、ひとつのハマリから脱け出せる感じになって、その感じがとても嬉しかったのだと思う。

「いいんだよ」という許可めいた言葉は、「認められた」と錯覚しかねない言葉だ。
 自分の中で自分を否定ばかりしている身には、こたえた。
 夢という生物は、夢だけあって、漠然としてたけれど、あきらかにぼくは夢の世界、「夢がつくったその世界」にいた。

 こうして今書いている現実も、同じようなものではないかと感じられる。
 造物者── 夢の中では、夢をつくる造物者がいて、ぼくはその世界にいることを実感した。
 造物者の声がしたし、その息吹、肉感さえ感じられた。

 この現実も、今パソコンに向かい、インスタントコーヒーを飲んでいる自分も、この現実世界という生き物の、大いなる体内にいるかのように錯覚する。

 神でもホトケでもない。この世界をつくるひとつひとつの物、ラジカセであり灰皿であり時計であり障子戸であり、窓を開ければ草木、家、空などが見えるが、それらの物のぜんぶが、さらに大きな物のようなものによって、そこにある。

 包まれている。その体内の中にいる。
 なかなかに、不思議な感覚だ。そして小さなことに捕らわれ始め、大いなる物のようなものの存在を忘れていくのだろう、という近未来も予想できる気がする。

 いや、それも意思だろう。見つめる先の、目線だろう。
 この体内、何の体内か知らねども、大きな大きな、この世のヌシのようなものの体内で、自分がひとつの細胞のように蠢いていることを意識する。

 夢も現実も、同じような世界に感じられる。まったく、不思議な気分だ。
 夢の世界と現実の世界の統治者、造物者は、同一人物だろうか。
 夢には夢の造物者がいて、現実には現実の造物者がいるのだろうか。
 いや、いまい。現実も夢も、同じ世界にある、同じ世界の出来事だろう──