くらべない

 声を発せられず、手足も首も動かせず、となったら、あとに一体、どんなコミュニケーションの方法があるだろう。
 どんな、意思表示の仕方があるだろう。そんな想像をすると、やるせない。

 自分の、意思が表せるということ。所謂「健常者」と呼ばれる者は、平気にこなしていること。
 行きたい所に、たとえば台所、寝室、外にも行ける。

「こんにちは」なんかも言えて、「いい天気ですね」も言える。
 こんな、当たり前の日常も、いつ、当たり前でなくなっても、おかしくないのだ。

 だからって、「障がい者」と比べて、ああ健康はありがたい、などと言うのも、おかしい。
 比べなければ、シアワセを感じられないなんて、浅はかで、愚かしい見方だと思う。

 だが、私は、比べることで、自分を不幸に感じる時がある。結局、同じことだ。
 どうして比べるんだろう、と歌うような歌があったが、ほんとにどうして比べるんだろう。

 たぶん、比べることは、仕方ない。
 どうしたところで、こっちの花よりあっちの花が、と判別してしまう。
 こっちの花は、こっちの花。
 あっちの花は、あっちの花。と、ただ「認める」というだけの境地へは、どうしたら行けるだろう。

 年齢差、性差、容姿差など、ただそれだけのことであって、「それぞれに、ある」というだけの見地。
 どうしたら、そこへ行けるだろう。

 みんなが、比べるからといって、自分まで、その杓子定規を用い、計ることから生じる絶望や希望を持つこともなく、淡々と、さりげなく生きれるには、どうしたらいいのだろう。

 みんなが何も考えていないように見えて、だからといって自分も何も考えていないふりをせず、まわりが小心でなく無神経そうだからって、自分も小心でなく無神経になろうとせず、傷ついた気にもならず、誰を傷つけようともせず、まわりとうまくやって行くには、どうしたらいいだろう。

 こうなればいいとか、こうなりたくないとか、そんな差別意識もなくし、「ただあるものを、ただあるものとして見る」ようになるには、どうしたらいいだろう。