繰り返すということ

 希望、望み、と、絶望、失望、の、いわば、繰り返しなのである。
 たぶん、そういうものなのだ。

 東京の友達と会う予定を立てる。
 立てて、その日が来て、会って、それでひとつ望みが叶ったと同時に、終わるのである。
 恋人とのデート。なんと楽しいラブホテル。
 しかし、それが終われば、祭りのあとの淋しさである。

 夏休みの旅行を希望に、日々を生きる。今度の週末はコンサートだ。
 再来週は、おにぎりつくって、どっかの公園に行こう。
 望み、望み、望み、は、終わり、終わり、終わるのだ。

 ときに、「理解し合えていたはずの」恋人なんかと、ふいに「それは誤解だったんだ」と分かった場合など、けっこうダメージを受けたりする。
 ひとつの、終わりであるからだ。

 給料をもらい、予想より低いと、がっかりする。
 今日の晩飯に入った食堂で、味噌汁の具が少なかったので、死にたくなるのも可能である。
 もう、どうあがいても、はじまり、おわり、はじまり、おわり、の繰り返しなのだ。

 で、何か決定的に致命的な「終わり」は、特に無いのだ。
 決定的に致命的な終わりは、じんわりじんわり、しとしと雨のように浸ってくるものだからだ。
 つまり、この、はじまり、おわり、はじまり、おわり、の永遠の繰り返しにおいて、あ、終わるんだ、と、いつのまにか自覚せられるものであるからだ。

 それでも、繰り返そう。くり返そう、くり返そう。
 おわりは、なんといっても、はじまりであるからだ。