いつから自分に善悪の基準ができあがったのか?
いつから、その判断を周囲に下すようになったのか。
自己の内にあるうちは、それはおとなしい。
まるでそんなもの、無いかのようだ。
それが外の対象に向かう時、初めて姿を現す。
善悪には対象が必要だった。
判断する対象が必要だった。
相手に向かい、自分に向かう、諸刃の刃。
善も悪も、私のつくり出した自己都合。
自分に具合の悪い相手には、善のナタを振りかざし、
好都合な相手には、悪と見なす余地を自分につくらない。
対象が必要であるということは、真実でないということ。
真実は、常に1つで、相反するものなど必要としない。
それは私の手中にはなかった。
私の中にある善悪の意識など、私によって都合良く操作されてしまう。
そんなの、真実でも何でもない。
いつから、善悪の彼岸が私の中に根を下ろしたのか。
何故にあの人は善、この人は悪などと容易に判断ができたのか。
困っている人を助けるのは当然だとか、そんな「当然」はいつのまに私に巣食っていたのか。
音楽家は、悪い音符を譜面から排除する。
彼にとって善き音が残り、♪ が踊って形づくられていく。
ひとりの世界なら、できること。
集団、組織の中では、そのままではいられない。
人、集団も、ひとりひとりの「私」の世界から成り立っている筈だったが。