キルケゴールは死にこだわった。
兄弟が皆若いうちに死んでいるから、自分も長く生きられないのだと思った。
だが、自分が死ぬだろうと想定していた年齢を越え、彼は生きてしまった。
この年齢で死ぬと思い込んだから、父の遺してくれた財産も計算し、ちょうどその頃に死ぬだろうという「人生設計」をした。
だが彼は、それ以上に生きてしまったのだ!
焦った彼は、糊口を凌ぐために、何かしたようだ。節約の生活にも入ったかもしれない。
そして彼がいよいよその寿命が尽きようとする頃(病気だったにせよ、それは限りなく自然に近い死だった)、彼は病室を訪れた牧師か誰かに「何か言い残したいことはあるか」というようなことを訊かれた。
彼は、「特にない。ただ自分がいつ死ぬのか教えて欲しい」というように答えた。
自分がいつ死ぬのか。「自分は〇歳までしか生きられないだろう」と自分で寿命を規定したように、彼は死というものに大きなこだわりをみせていた。
死は、一大事である。まして自分の死は。
この世が、なくなってしまうからだ。彼が死んでも、この世は続いている。だが、その世を彼が見えない以上、彼がこの世を感知できぬ以上、この世は終わることになる。
彼にとってのと言えるだろうが、そんなこと言ったら、誰にとっても同じだ。
この世に生きているという自覚を持たぬ者は、死んでいるも同然である。だが実際に死ぬとなったら、この世を切実に思うだろう。未練や、初めて体験する肉体の死、今までのこと、自分は何だったのかという、見たこともない現実を見た気になって、また未体験ゾーンへ突入することへの不安へ駆り立てられ、それこそ生きた心地もしなくなるかもしれない。
だが、その時ほど彼が、生きていることを実感、体験、生きていることをほんとうに自覚する時はないだろう。
思うに、キルケゴールは常にそのように生きていたのではないか。
死を、思うこと。これを彼は、ほんとうに忘れたことがなかったのではないか。
そうして彼は精一杯、生きることができた。自分のするべきことは書くことだと、これまた思い込み…いや、言ってしまえば彼はそういう運命だったのだ、そうでなければ彼は彼でなくなった…死を思うことによって、忘れないことによって、彼は自分で定めた「やるべきこと」に脇目もふらず精進できたのだ。
これは、ひょっとしたら誰にでもできる生き方かもしれない。漫然と、平均寿命がいくつだから、まだ自分には時間があるとか、そんな猶予を自分に持たせない。
生きている間に、自分のできること、やるべきことは何なのか。これに向かって突き進むには、「生命、生きている時間の限定」が必要になってくる。なくてはならない「限定」だ。
誰もが死ぬ。これは永遠に変わらないことだ。誰かが死んでも、この世は続いていく。この世を見る「誰か」がいるだろうからだ。(と想像できる)
だが、その誰かは、「私」ではない。私の死は、私の死だ。他の誰でもない、「私」の死だ。
その「私」を誰もが持っている。ひとりひとりにとっての「この世」がある。
人間が核戦争で「自殺」したとしても、地球はあるかもしれない。この地球を育んだ宇宙も、あり続けるかもしれない。
だが、それを見、空の彼方を想像する「私」が消えたら、地球も宇宙もなくなる、と言っていいだろう。実際、そうなるのだ。
生命には限りがあって、その限りを超えることはできない。だが生命とは、それを生命と知る者、規定する者、限定する者──すなわち「私」の限りに知れる、「ある」ものだ。
この「私」の生命が終われば、この世も終わる。これは、こう考えると、事実といっていいだろう。誰にとっての事実ではなく、誰もが死ぬのだから、誰にとってもの事実といっていいだろう。
だから殺し合ったり傷つけ合ってはならない、とも言える。それでも殺し合い、傷つけ合う。わざわざ、しなくてもいいのに、わざとのようにそれをする。
ほんとうに平和な世界とは…「私」はひとりではない。誰もが死ぬ、この「私」を、だから「世界」をもっている。
その世界をつくっているのは「私」「私」「私」…なのだ。
誰もが、ほんわか、こんにちは、とか言って、笑えるのが平和だとしたら、どうしたところでこの「私」をどうにかしなければならない。
そのどうにかする自分をどうにかするために、死を思う、忘れないことは、大きな、生きる大きな原動力になり得る、と思いたい。
何も世界平和のために(!)どうにかしようとするのではなく、「私」を持つひとりひとりが、「この世で自分が全うしたいこと」「自分のするべきほんとうの仕事」に向かう。そのひとりの、「私」だけの世界が、この世の世界であることを否定しない。ひとりひとりが世界であることを、認知する。受容する、包容する。「私」と異なるものを、排除しようとしない。
──こんな夢物語のようなものを書いていると、生まれもっての凶悪な暴君、どうせ死ぬのだから、と、凶暴な行いをする者も、想像から離れない。
ひとりひとりが「自分のするべきこと」に没頭、熱中して生を生きれば、平和な世界になるわけでもなさそうだ。平和でなければそんなこともできないのに、その平和が気に入らぬ、壊すことが自分の使命だとする者もいるだろう。
話が、とりとめもなくなった。
ただ、死は、荘子も言っているように、生命である。死を、疎ましがらない、「私」の生命をほんとうに生きるには、を考えた。