己に

 義務、義務感を血肉とするが如くに、自己の内に備え、それとともに生き、それを礎に生きて行く。そんな姿勢、責任とともに、責任を自己自身の生きる土台、責任と自己が同化するように生きていく人は、ほんとうに強いと思う。

「やるべきこと」、それが具体的に、現実に、事実的にある。それを日々、こなしていく。地道な、派手さの全くない、それをやり続けるしかない、それが当然とする、他に大きな選択肢など無い様子。それを、とにかくやっていく。それが義務、責任のようであり、それをしていくことが、己の義務・責任を果たしていくことになる、そういう人生。

 政治家のような、自分の立場、地位、名誉欲を満たすためのような、そんな義務・責任(と彼らはすり変えているように見える)でない。もっと質素で、つつましやかな、まるで何ということもないような日常、その中に「やるべきこと」が空気のように、しかし確然と、これしかやることがないかのように、それをやる。やり続ける、それが己の義務・責任を果たしていくことに、確固として繋がっている。そんな生き様。

 私の父は、きっとそのように生きた。あ、兄も、と思う。そしたら、けっこう多くの人が、ほとんどの人が、そうしていたのではないか、見えない「家庭」、外からは見えない家庭の中で…

 子どもを育てるのは大きな責任だし、妻を養うのも大きな責任だ。私はそんな責任を果たしてきたとは思えない。ただほんとにお金を送り続けただけだったし、子どもの成長を見てきたわけでもない。「養ってきた」「養った」実感など、皆無である。

「家庭を守る」意識はあっても、それを具体的にどうすればいいのか分からなかった。また、そんなことができる人間とも思えなかった。自分に相応しい立場も、どんな仕事が自分に合っているか、そして続けられるのか、まったく分からぬまま、その時はヨシと思っていたとしても、その時が永遠に続くわけでもなかった。

 こんな人間になりたい、というものはあった。だがそれも外面で、穏やかそうで、優しそうな人である。その人の内側まで知って、「こんな人になりたい」と思っていたのではなかった。

 そもそも人に、「本性」とか「正体」、「ほんとの顔」なんてあるんだろうか。

 変わらぬ気質はあるだろう。だが、人間は気分の存在だという。刻一刻と変化する気分、それが「内側」だとしたら。

 外側は、一体何なんだろう。その「外」によって人は、関係を結んでいるかのようだ。言葉も外だ。態度も、目つきも、物腰も、外と外とのくっつき合い、反応のし合いで、滑らかな関係、つっけんどんな関係、訝しげな関係ができあがっていくようだ。

 その外をつくるのは内面であろうが、その内面が見えない。判断するのは外に出たもののみが、その材料となる。

 内面を映し出す鏡。この方途が、自分には「書くこと」以外に見つからない。たぶんこれを読んでくれる人がいたとしたら、その人は僕の理解者となるだろう。

 これでも僕は人間なので、人間理解の、些細な一端にでもなれば、少しは書いた甲斐もあるというものだろう。

 だがそれは結果にすぎず、まず「私」を私が理解しなければならない。自分という人間をほんとうに理解する! まぁ、せいぜい近づいて、近づき、遠のき、近づき、遠のきを繰り返し、精一杯、そうしようとすればいいよ。

 まるで具体的でない、雲をつかむような話であるところの内面を、読みづらい文章で、たどたどしく、しかし正直に真剣に、行くがいいよ。お前が今、かろうじて自分に与えられる、義務のようなものであり、お前が一番やりたかった「仕事」のようでもあるらしいのだから。