空間認識、形象認識

 モーツァルトの音楽のように、文を書けたらと思う。流れるように、一箇所に留まらず、軽快な歩調で、快い空気のように、そよ風のような文を書けたらと思う。

 サッサッサ、と、何も考えていないように、書ける時もある。「これしかない」そんな他の選択肢の力も借りず、自然みたいに「これ」を書ける時がある。

 言葉あそびをすれば、「しか」と「だけ」は違う。「しか」は他の選択肢もあるが、これしかない、と一本に絞る時。

「だけ」は、まったくこれだけ、他に何もない、という感じ。

 これだけ、という感じで文を書けたら、と思う。

 だが、そんなことは基本、ムリだ。数多ある言葉から、今の心情に近い言葉を探す。

 何が言いたい文なのか、と、まとめようとしたりする(最近はしていない)。

 ジンセイだってまとめられるものでない。どんなに言葉を選んだって、近づくだけで精一杯だ。

 不可能であるからこそ。不可能であるからこそ、こうすることができている。

 何が言いたいのか。言いたいことなど、そもそも、あったのか。

 そう、書くことは、生きることと、ちょっと同じだ。

「私」が書くということ。「私」が生きるということ。他の、誰でもない。

 音楽は、空間認識、文は机上(スマホ?)の認識。そんなことを書こうとしたが、やめた。