記憶を自在に

 記憶を自在に操れる能力があればなぁと、ちょっとだけ救いのように考えた。

 都合のいい想い出、快い、よき想い出だけを記憶の引き出しにしまって、開ければ楽しい、心地良い想い出しか出てこないのだ。

 ドラえもんのポケットより、こんな引き出しが欲しい、そんな机でありたい。── 一瞬そう思ったが、何も欲しなくても、そんな机に自分、なれるじゃないかと思った。

 いやな記憶は、そのまましまっておけばいい。楽しかった想い出だけを開けて、それをそのまま見ればいいのだ。

 だが、そんな「いい想い出」はそれだけで終わってしまう。じっくり、吟味できるものではない。

 楽しかったなぁ! それだけなのだ。あの時はよかったなぁという、懐かしさ── 郷愁のような懐かしさの方が、楽しさよりも大きく、心が包まれたりする。

 比べているのだ、今と。

「あの頃は」「今と違う」。今にないものを、「あの頃」に求める。今にないから、あの頃に求められる。求めようとする。だから「楽しかった記憶」をそのまま見ることができない。あの頃と比べ、今より良かったなぁとしたい、過去に慰安を、慰みを求めるという心のはたらきが、その引き出しを開けさせているからである。

 着色料保存料が添加されている心で、純朴で純粋だったような想い出──ぼくはよく、親に守られ、兄と遊んだ、無責任で済んだような、子どもの頃の想い出を、宝物のように大切にしているらしい── をよく思い出す。

「あの頃」はまるで不純物の添加されていない、そのままの素朴な記憶として残っているのに、その記憶を掘り起こす現在の自分が、おそらく異常と言っていいほどに固執し、「あの頃」に救いを求めるようにして、後生大事に「あの頃」を胸にしまっている。離せない。ほかせない。

 よしタイムマシンであの頃に戻れたとしても、ぼくはそれを選ばないだろう。あの頃に戻るということは、現在から自分が消えるということだ。死ぬことと同じである。一緒に暮らすひとは悲しむだろう。東京にいる兄も、弟はどこへ行ったのかと心配するだろう。そんなことはしたくない。それに、何だかんだといってぼくは── 今、自分の慰みのために過去を思い出すことを知っているのだ。

 そう、いやな想い出、忘れたい想い出もある。そっちの方が多く見える。

 だがそれは、そっちの方が、楽しい想い出と比べて「深い」からだ。あれこれ、考えることができるからだ。愉快な想い出は、そんな考えることを必要としない。

 いやな想い出は、自分の場合たいてい人からもたされる。すると、なぜあの人はあんな目つきでオレを見たのだろうとか、なぜあんな態度をとるんだろうとか、考える余地が沢山、あり余るほどにできあがる。そしてその理由は、わからないのだ。で、またあれこれ考えることになる。

 他者から与えられた、考えるきっかけ。これが不快であるから、不快に考えることになる。不快でなければ、思い出し笑いもできよう。だが不快であるから、不快なまま考える、「思い煩う」ことになる。

 そう、こんなことを書いているぼくのバックボーンには、あのドストエフスキーの「人間は幸せであることに気づかないだけだ」があるのだ。「足るを知る」にも通ずる言葉。幸も不幸も、同じ引き出しにあるのに、わざわざ不幸になるような引き出しばかりを開けている。

 ぼくは、この「思い煩う」引き出しを開ける能力については自信がある。思い煩うことが大好きなのだ。