だいたい、思い煩わない者が、いったい何を書けるだろう。思い煩う、このために、結局人は自己を持ち、自己である自覚をし、また自己がないかのようにも思え、不安になり、何やら自分という存在を確認したがる。
自分ひとりでは心細いから、他者の、他者から見る、他者から見える自分を気にする。あ、これがワタシか、と思う。その「ワタシ像」が、自分の気に入れば満足だ。気に入らなければ不満足を覚える。
他者に、「私」を求める。
他者が、私の何を知ろう。私が、他者の何を知ろう。
ただの印象があるだけじゃねえか。
だが、この印象があなどれない。印象によって、まるでその人が、だから自分自身が、決まってしまうかのようだ。それは一瞬の出来事なのだ。
恐ろしいことだ、と書いて、やはり可笑しさを禁じ得ない。
そのたった一瞬を二瞬、三瞬、全瞬にまでしているのは、粉うことなきこの自分なのだ。
何とも滑稽な、笑い話ではないか。
自分でイメージをつくり、つくられた、としても、それは自己の中のものに過ぎず、それぞれの自己ひとりひとりの自己の内的な作業によってつくられるものに過ぎない。それ以上のものにはなり得ない。
まったく、いわば「取り越し苦労」、そう、これがかなりの度合いを占めていると思われる。こんな取り越し苦労、考えなくてもいいことを考え、──しかし「考えていいこと」とは何だろう?
合理的なもの、損得勘定、「考えて仕方のあるもの」?
そんなもののために考えるわけではないだろう。結果を求めて考えるわけではない。いや、結果、望ましい結果は求めるが、考えている最中は、考えるだけである。結果が目標であるとしても、それはあくまで結果である。
何のトクにもならないようなことを考える。何でこんなことを、みたいなことを考える。
メリットがあるとかないとか、先へ繋がるとか繋がらないとか、そんなもののためだけに思考が働くわけがない。
そんな機械人間のような、「コレハ・ムダデス・ステマショウ」なんてふうに、できているものではないんだ、人は、そもそも。
そんな人間がいたら、つまらない。少なくともぼくは、そんな人間とつきあいたくない。
で、好きこのんで、あれこれ考えて、こんなことを書いているわけである。