しかし生から降りる、人世から降りるという時、それは発作的な衝動、一種、ある種の唐突な感情の発作から、自らの生命を断とうとするものだろうか。
もし自分がそういう行動をとる時、そんな一時の感情の爆発、壊れたダムの決壊みたいに、そうするだろうと思われる。一心不乱に、心どころの騒ぎでなく、乱れようもないように直線的に、そうするしかないとも思わずに、一直線にそういう行動をとるだろうと思われる。
その時、それまでの「ああ死にたい」と毎晩うわ言のようにいっていた僕は、やっとこの念願が叶うのだとも思わないだろう。とにかく思考というものが、完全に働かなくなる。だから自殺という、想像を絶するような行動がとれるのだろうと思われる。
たしかに、それは狂気かもしれない。瞬間の、発作的な感情の極み、K点を超えた、「あっちの世界」にその瞬間、行っているのかもしれない。そうして事実、その決意(とも意識する間もなく)と行動が一致した一瞬間後、まさに「あっちの世界」へ旅立っているのかもしれない。
しかし死、しかも自分からすすんで死ぬという、これは一体何なんだろう。
もちろん他人事とは思えない。僕も、生きたいより死にたいと思ったことが圧倒的に多く、(たぶんそれは「生きたい」時はほとんど何も考えていないに等しく、「死にたい」時は何かを真剣に考えているからだろうと思う)やはり何としても死ぬということ、自分から死ぬということは、胸の詰まる、つらい、苦しみを覚える。
自分はよく死にたいと思うのに、人が死にたいという時は、死んでほしくないと思う。
生きるも死ぬも、同じ生命を扱う、生命に手を入れるというところで、僕には同じ意味合いに見える。
… 人を励ますことはできるが、自分を励ますことは難しい、と、昔友達が言っていた。死にたい自分を励ますことは難しい。死にたいというのが望みなのだから。でも、人を、死にたい人を励ますことはできそうではある。僕がもしそういう人と面と向かったら、思いっ切りバカなことを言いそうだ、くだらぬ、ほんとにくだらぬ冗談を言い、ひとりで笑い、もっとバカになろう、もっとバカになろう、としそうだ。
真剣に、バカになろう。
そして相手に、なんにも伝わらなかったら、そのとき初めて涙ぐみそうだ。
しかし、ほんとに自分から死のうとすること、何だろう、一体、何なんだろう。
というのも、さっき僕は、自分が死にたい…というより、破滅したい、というような気持ちになったからだ。破滅…というと何か違う気がする、どうにでもなれ、という気持ちか。だいじなものなんか何もない、いや、だいじなものを捨ててしまいたい、そんな気持ちになったのだ。だが、どうやって捨てていいのか、どうやって「どうにでもなれ」が行動になるのか、まったく分からなかった。全く見当がつかなかった。
僕に分かるのは、いつも「こういう時があったな」ということだ。その時の真っ最中も、うっすら意識のどこかにあった気もするが、その時が過ぎ、こうしてパソコンに向かって書いていると、何やら思考が働くようだ。
一方で、まだどこかに感情の荒ぶる気配も感じられる。右胸半分が感情、左斜め上が理性?みたいな感じだ。
その真ん中に立ってみると… 左上の理性?が、この左上のものが、僕を手招いているのが分かる。同時に、この真ん中の僕が、この左上を、憧れのような目線で、見上げているのも分かる。
感情は地上に近く、理性?は天空に近い… 感情はでっぷり太って重そうだが、理性?はほっそりとして、スタイルがいい。それもぼんやり、うっすらしていて、聖母像、母子像?みたいに見える。
感情は醜い。理性?は神聖な感じがする。