そう、山の、奥で暮らす、なるべく人を離れ、暮らす── ああなるほど、いつか、そう言ってくれた人がいた、「山の方で暮らすのが幸せかもしれない」──嫌味でなく、それが僕にとって良い、僕の生を全うする、僕がこの世で幸せに生きれる──僕の生命の役割、相応しい生き方、この僕の生命の、生かし方、とでもいう──町の中、人の中に紛れて死んだように生きるのでなく(その中で生き生きと生きれる人もある、それはそういう性、気質、それが彼に相応しい彼の性命の生かし方であって、彼は彼のそれを全うすればいいのだ。何が最善、最全の生き方、性命の生かし方かなんて、もう生まれた時に決まっているようなもので、各々に備わったものを生かして生きるのが最善、最全の生き方であろう)。
そう、性命。生命、もともとは「性命」と書いたのだ。十把一絡げに生命と呼ぶのでなく、性命、その人に備わった性、性質、気性、気質に合った、それを生かして、生を全うするがいいのだ。
「私」を生かすのではない。いのち、この、これを生かすのだ。
そして「私」は人里を懐かしむだろう。人芥に溢れ、ごみごみした、あの雑踏、ひしめきあう家々、狭い道路、車の往行、人とのすれ違いに緊迫した生活を。
商店街のせせこましさ、スーパーに溢れる商品、あんな可愛い娘がいた、憎らしい奴がいた、顕微鏡でしか見れなかったものが、裸眼でリアルに、手に取るように鮮明に想い出すだろう。
誰でもいいから、会いたい、人間と会いたい、人が恋しい、人を愛したい、と想うかもしれない…強烈な、激甚の衝動をもって。
私は自分自身との相性を知るべきだ。誰でもない、この「私」の性命、だから運命を知るべきだ。それに従い、他のなにものも、この「命」を知るための契機、きっかけに過ぎなかったのだと。
知ろうとしない限り、知れるものではない。それは誰にも知られない、私だけの「知」だ。かけがえのない、何ものにも代えられない、「私」だけの。
誰に知らしめす必要もない。私だけの知、私が生きるための、「私」の性命がこの世で生きるための、生かすための最大限にして最小限の、他の何物にも置き換えられない、まことに生きるための「知」だ。
そう、それは道だ、道になる、道になっていく道だ、己の中にあった、既存のものではあったが既知には至らなかった道だ──