「今、わたしはこのように死んでいます。ホラ、死んでるでしょ。ね?」
と、明らかな実証をもって描けるノンフィクション小説があったなら、それは聖書を凌ぐ大ベストセラーになるだろう。
だが、それは誰にも書けない。死んでも書けない。
で、生きているうちに想像力を飛ばし、せいぜい死後の世界を書く。
といっても、生きている世界なのだが。
まったく、死後の世界というのは、どんなものだろう。
それにしても、そんなことを考えても仕方がないのだ。
しかし、考えることも仕方ないのだ。
分からない、知らないことは、考えるしかない。
知らないから、分からないから、考えるのだ。
そう考えると、私は何も知らない世界に生きている。
人の気持ちも本当には知らないし、なぜここにいるのかも、なぜ時計に縛られて生きているのかも分からない。
自分自身が、本当に生きているのかどうかも、分からなくなる時がある。
「本当に」というのがまず分からない。
嘘ならよく分かるのに、本当にになると、よく分からなくなる。不思議なことだ。
<ホントのことは、ウソから生まれる>
しかし本当は本当で、本当以外にないのだ。
「私が本当です」という「本当さん」がいらっしゃったら、かなり孤独な、孤立した存在であるだろう。さぞ心細いだろう。
死と生を考えてみよう。
どっちも、きっと本当である。だが、本当でもないのである。
死は、死んだ本人には認められない。
生は、生きている本人には認められても、他の人のいない孤島にいては、誰も彼が生きていることが認められない。
死は、まわりにとっての本当であり、生は本人にとっての本当なのだ。
換言すれば、死は本人が生きていない以上ウソで、生はその本人が死んでもホントウなのだ。
どうも人間というのは、私が小学1、2年の時に担任の山田先生が教えてくれたことだが、「人との間に存在する」ということらしい。
本当に。