さて、唐突に自殺について考えてみよう。
「我」は、意識であるから、精神、内的な、内部のはたらきだ。
自殺は、身体に危害を、殺傷をするもので、「我をなくす」ことにはならない。我をなくすことができたとて、その肝心な「我をなくせた」意識さえできない、自覚をさえ失わせるものだから、自殺は「我をなくす」ことにならない。
「我」は、どこまでも内面のはたらきで、その対になっている身体には何の罪もない。
内面のはたらき、それが「魂」とも通じ、そんな言葉で言い換えられるものであるならば、肉体を失っても、その魂、我、内的なはたらきをするものは変わらずに残り続けてしまうことも考えられる。
たぶん、そんな魂のようなものは、ある気がする。とするならば、とにかくこの肉体のあるうちに── 肉体に宿った生命が「ある」と意識できるうちに── この「我」をコントロール、手なずける、どうにかする、その最善の策をこの身につけたいと考える。
微量だけれど「生きる」ことに関する本をいくつか読み、マニュアルでなく考える本を読み、これがほんとうに理想、と思えた思想、生き方の基盤、土台というもの。
老荘の「自然に任せる」。無為自然。これが自分の窮極、最終的な到達点でありたい。
それまでは、あのキルケゴール、ニーチェ的な固執、論じるでなく「生きた言葉」、自分の体験(思い、空想も体験だ)に基づいた、自分に引きつけたところから始まる、結局論理になるかもしれないが「生きた言葉」に自己発現できたら、という理想に向かいたい。
その発現に必要な姿勢、そこは椎名麟三と山川方夫の誠実さに学びたい。
そんなところで、結局未来に向けて、向かっているだけで、今には何の解決法、「我をなくす」何の方途も見つかっていない。
が、こう書いていると、何やら希望に向かえる気にもなる。
「これが私の理想です」。
それがほんとうであれば、またこう想う自分がほんとうであれば、たとえそれが自己内限定であったとしても、その理想に向かって、どうにかやって行けるんじゃないか。そんな気にもなるのだった。
目標というほど、明確なものでない。「我をなくす」なんて、よく分からない、何の取っ掛かりもない。
自然に── 自然なんて意識もできないほど自然に。
はたして、イケるのやら、でも、どうしようもない自己を引きずり引きずられ、どこかにはイケるだろうと思う。そこが「理想」の、「我をなくす」ところであるのかどうか…
とりあえず、今、とりあえず、今、の連続で、そのどうしようもない理想、そんな理想をもつどうしようもない自分が、しかしホントウであれば、きっとイケると信じたいのだが。