ならば、「生きる」方向へ、行けもするだろう。
一歩踏み出すことには変わらない。
ただきみは、それをすることで自分が死ぬと思っている。
きみがきみであるところの、「きみ」でなくなると思っている。
きみでなくなったとして、それが何だというのだい?
きみは、きみではないか。
どんなにきみがきみでなくなる、それは死だ、としたところで、きみは生きているではないか。死んではいないではないか。そしておそらく、生きて「行く」確率の方が、高いではないか。
それに、どんなに死にたいなどと念じたところで、そんな簡単にきみは死ねやしないのだ。今までも、そうだったではないか。死にたいと思うこと、ここにきみは、ただ安息を見い出しているだけなのだよ。
それでいいではないか。ありがたい安息ではないか── 死にたいと思えることは。
その気持ちを大切に、生きなさいよ。きみが思っているほど、重大なことではないよ。
どんなにきみが変わろうと、きみの中の変化でしかない。きみは一体だ。きみの思う自分が変わろうと、どんなに変わろうと、きみはきみという、一体だ。
きみが、きみであることに変わりはない。
それで、いいんだよ。いいもわるいもないんだよ。でも、どちらかといえば、いいんだよ。
さて、夜だ。夜は寝るためにある。眠れるか眠れないかはさておき── こんな夜毎の、寝る、朝に起きる、この繰り返しも、言えば生と死の繰り返しかもね。
だって自分が自分でなくなること、自分を認識できなくなること、一種の忘我状態、これを死と呼ぶのなら、寝ている間は死んでいるも同然かもしれないからね。
そうか、きみは死が怖いから、眠れない、眠りたくないのかもしれないね。
まぁ、でも、… いや、何でもないよ。
おやすみ。おやすみなさい。