決まってたところへ行く

 どうしてこのような考えに至ったか。至った、というと行き止まり、結論、末路、最後、最果て、これ以上なし、という場所のようだ。一つの、一つしかない、袋小路か。

 そこに至った時の気分。── 気持ち良かった。

 どこへ行こうかとずっと迷い、私は私と対話していた。この話し合いも、楽しいものだった。私が何か言う。私がうなずく。私が何か言う。私は相槌を打ち、苦笑したりする。「いや、でも、それはねえ…」「いやいや、だってしょうがないじゃん、もう、ねえ」「うーん」「そうだなぁ」

 こうしてその時の私と私の対話をここに記してみれば、内容がない。内容は、何も言っていない。ただ相槌を打ち、笑い、困っている私に私が相手をしている。しかも、まっすぐ見つめながら、愛想さえ良く。

 なんと楽しい時間だったろう!

 最初のうちは、ふたりとも憂鬱だった。いや、ふたりになる前だ。ひとりで、独り言を私はいい始めた。だが、その私は相手を求めていた。その相手が、私だった。

 斯くして内容のない、内容のことは一切口にせず、ただ相手の言うこと(わかるのだ)に耳を傾け(わかっているから別に傾けなくてもよい。それは一種の社交儀礼だ)、よく聞いているふりをする。

 だが、そんな「ふり」を、まっすぐこちらを見つめながらする私が、可笑しくて仕方なくなった。

 小一時間、話し合ったろうか。

 そして私達は、ある一つの── 一つしかない、くだんの結論、行き止まりに至った。「どこへ行こう」から始まった、私達は、ここに至った!→「決まってたんだよ、決まってたんだ。決まってたところへ行くのさ!!」

 ここで私は、時間を思った。決まってた、は、過去である。だが、行く、は、未来なのだ。すると私は、どこへ行くことになるのか。すでに決まっていたところへ行く。決まっていた過去へ、これから行くのだ。

 今、私はひとりである。あの時対話していた私とのことを思い出しながら書いている。淋しいものだ。

 私は、もう決まっていたのだ。そのことが、私と対話していた時間の中で、私達の至った結論めいたものだ。

 決まっていたのだ。だから、決まっているのだ。どこへ行こう、と思い煩うこともない。なぜなら、それはもう決まっているからだ。

 なぜこうなったのか、私には分からない。ただ「こうなる・こうなった」の連続で現在にいる。その私の記憶の最初の方から辿っていく(きた)と、私がずっと私であるところの私であることが分かった。

 これはもう、私なのだった。あたかも決められた予定表(決めことを遂行していく・・)のようで、この予定表(私自身)も、決めた過去を未来へ辿っていく。決められた・・・のだ。私が決めたとは思えない。誰が、このようなスケジュールを立てたのかも私には分からない。

 だが、造物者── 書記長だろうか。幼児のらくがきだろうか。私はそこに刻まれた、書かれた私で、生まれた時から今に至るまで、私でいたのだ。

 私が書いたのではない。私の立てた予定表でない予定表を、その通りに私は辿ってきたのだということが、実に疑いの余地なく、私を満たした。私は別に、どこへ行こうという具体的な目標、明確で確固たる目標を持たずにここまで来た。

 それでも、ここまで来れた。これは、私のせいではない。私は、こうあろうとしてこうあったわけではない。それでも、ここまで来たのだということが、「これからどこへ行こう」から始まった私との対話の、終着だった。

 決めなくてよい。決められているのだ。この私が、どうあがこうと、何ものかに既に決められ、私の行き先は決せられ、決められているのだ。

 ああ、ひとりでこんなことを書く。なんと心細いことだろう。

 その先は? その先は? もう書くのをやめて、私と一緒の時間に戻ろう。