子どもたちへ(6)

 さて、しかしどうして「きみたち」と呼ぶと、なんだか私が「上に立っている」ような気分がするのはどうしたわけだろう。

「きみ」という二人称単数と、「たち」という、「人は一人一人違うのに、まるで十把一絡げにされたみたいだ」という、そんな感じがエラそうだね。自分でも思うよ。

 実際に、きみたちが目の前にいてくれたらなあ! 私はきみたちを頭の中でつくって、こうして話す文体で書くことを選んだ。自分で自分に話し掛けているようなものだから、限界がある。広がっていかない。自己閉塞を感じるよ。

 これが、実際にきみたちがいてくれたらどうだろう? 私は「きみたち」なんて呼ばないで、目線で合図を送るだろう。相手がいれば、(きみ)と(私)の間の空気の震動で、私は変わる。第一、きみは質問をしてくれるだろう、私の頭が想像する質問を越えた質問を。

「言葉は、相手との対話以外に意味を持たない」

 これも、ソクラテスの発言だ。仏教の祖、ブッダと同じく、哲学の祖といわれる彼も、言葉をそう捉えていた。

「伝えられることを欲している」人に対してのみ、伝える言葉の意味がある。言葉は、どうしたところで「伝えるためにある」らしい。人に、何か言うために、人から何か言われるために、あるらしい。

 とすると、私のこの書き物は、何の意味もないということになる。だって、欲している人がいないのだから。

 困ったものだね。一体私は、何のために、何を目的に、何を望んで書いているんだろう?