「誰が死んだのか?」とは、池田晶子の墓標に刻まれている言葉だそうだ。
新潮文庫から「さよならソクラテス」等の著作あり。
「14歳からの哲学」は、たしかベストセラーになっていたはず。
まったく、自分という存在は観念から成るもので、私は誰であるかというのは、万人に共通するクエスチョン。
名前は便宜上の記号であり、社会的立場、身分、家系図、表札に表われる「私」の姓名も、その域を越えるものではない。
私はこう思う、と称しているところの「私」も、煎じ詰めれば一体誰なのか、分かったものではない。
「これが私だよ」と、取って差し出せる「私」は、どこにもない。
これが自分だと思っている「私」は、本人がひとり、そう思っているところに、あることしかできないのが実相。
彼が思う私は、私の思う私ではなく、私の思う彼は彼の思う彼ではなく、というふうに、頭の中と実態が常にズレ合いながら、一致することはなく在る人間関係。
相手を思うということには、こうあって欲しい願望も含まれるから、勝手にひとりで期待して、ひとりで勝手に傷つくという一人芝居。勘違い。すれ違い。空回り。
ところで、死も、頭の中にある観念に過ぎない。
生と死は、ふたつでひとつの生命だから、生も命も頭の中にあるものに過ぎない。
意識、思い、屈託、悔恨、それらのものが時間の線上にあるに過ぎない。
それらを十把一絡げにして、人生、などと大層な言葉で表されているに過ぎない。
それらのもの、なければ、単なる石ころと同じ。石が転がっていて、そこに石がある、と思う。石は何も考えていないとしても、それを見る者は何か考える。
自分と、石の間に、ある関係を見る。これに躓けば恥ずかしい。この石に綺麗な模様でもあれば、美しいと思い、自然の造化に畏怖さえ感じる。
同じ1コの石でも、全く違った存在になる。
しかし、石は石に違いない。なぜそこに自分が転がっているのかも知らず、ただそこに在るだけである。
ただそこにあるものに、美だの醜だの、こいつのせいで躓いたの、それと「関係」を持った者が、あれこれ意味を付けるだけ。
この世に存在するものは、全て「物」であり、輪郭はあっても特に実体は無いものだ。
そこに思考夢想を繰り出し、意味を付ける。
そうして関係が生まれるのは、石と人の関係、人と人の関係、どちらも同じようなものだ。
自分はなにものであるのかも知らず、関係を持った相手には、知ったかのようなつもりになって関係する。
関係しないでは、いられない。生きる意味だとか、死ぬ意味だとかを考えるのも、知らない自分、知らない人によって出来上がる人生に、端を発している。
そもそも、なんで生まれたのかも知らないのだ。
なんで死ぬのかも知らず、知らない間に、知らないものどうし── 石も布団も、食器と箸も、タバコと灰皿も、それらと関係する「人」も、なぜそこに在るのか知らずに関わり合う。
関わり合わずして、まるで自分まで、存在しないかのようだ。
「この人は、生きていた」と、その人と関わった人は言う。
しかし、誰が生きていたのか、分かったものではない。