自分の弱さについて(3)弱さの極み?

 しかし、何といっても自分が弱いと感じるのは、「生きてるの、イヤんなっちゃう」時である。自分へのこだわりが強いがために、死にたくなるのだ。そんな時、たいてい私は未来に対して絶望している。希望があれば、わざわざ死にたいなんて露ほど思わないだろう。

 また、なぜ「死にたい=弱い」と思うのかを考えると、まるで多くの人が死にたいと思わないで生きているように見えるからだった。大多数の人が、きっとそうなのに、なぜ自分は死にたいと思ってしまうのか。すると心細くなって、自分が弱い、こんな強い人達ばかりのこの世で、これから生きて行けそうになく感じられるのだった。

 中学生の頃、高野悦子の「二十歳の原点」(新潮文庫)を読んで涙したのも、この女子大生の「自殺した」という事実が、私に慰めを与えていたからだと思う。自分は独りではないんだ、と初めて知った気がした。同時に、なぜ死ななければならなかったんだ、と、どこに向かってか、激しい怒りを覚えた。

 太宰や三島、川端芥川となると、全く読む気にならなかった。有名人は一般に認められた存在だから、住む世界が違うと思った。一中学生の自分には、一大学生の高野悦子が、一緒に住む親きょうだいよりも、よほど身近に感じられた。

 それから、椎名麟三を読んだ。漱石やドストエフスキーも読んだけれど、椎名の「深夜の酒宴」、これが決定的だった。
 それは希望の微塵もない小説で、おそろしく暗かった。「堪える」という言葉が何回も出てきて、そしてその通り、主人公は堪えて生きるしかなかった。戦後の、極貧、思想の無意味…といったものに。

 読む側のこちらも、堪えて読んでいた。
 すると、「堪える」ということが、奇妙な快感に私を誘った。ほんとうに、希望もへちまもない小説なのに、なぜ快さを感じたのか。絶望も、とことん絶望であれば、その中にどこか滑稽なユーモアがあるように感じられたのである。まるで絶望の中に、希望があるように。

 その小説は「生きる」ということが、そのまま描かれていたように思う。精神世界の描写は一切なく、ただひたすらに絶望的な現実のみが「僕」を通して描かれていた。

「深夜の酒宴」から、私は「堪える」ということに愛しみを感じ始めた。これは、地味だが、実に絶大なものだった。
 大学生になって、通学途中の電車で座っている私の肩に、知らない男が顔をのっけて熟睡を始めたことがある。向いのロングシートに座る女子高生たちが、クスクス笑っていた。だが、椎名麟三の「堪える」世界に生きていた私は、自分の肩が枕になっていることに堪え続けた。恥ずかしかったが、これを堪えている自分に、喜ばしささえ感じていた。

 一応文学部だったから、友達に「この本、すごいよ」と見せ、無視されても堪えた。どうせ読まれないだろうことも分かっていた。
 つまらない一般教養の授業、片道3時間の通学時間、わけのわからない人間関係、卒業すれば、しがないリーマン…「堪える」ことは、この世に満ち満ちているようだった。