ニーチェにしてもキルケゴールにしてもモンテーニュにしても、自分の書いた物が読まれることを喜んだ。
あれほどの賢者たちでも、「認められたい」願望があった。
ソクラテスはどうだったろう。対話をすることで「真実」をつかもうといていたように見える。「ソクラテスが最も賢い人です」と巫女みたいな預言者が言っていたと聞き、それを確かめにわざわざ彼女の所まで出向いたような話もあったような気がする。
「真実は対話の中でしか生まれない」は本当だろう。
その人と「私」の対話。その人と私が、あるテーマに対して議論をする。いかにも西洋的に見える。論破したら勝ち、というようなものだ。
でも、きっとソクラテスは「勝った」の「負けた」の、そんなことはどうでもよかったように見える。そんなことより、真実の方がよっぽど大切だった。
「負けた」人は、「恥をかかされた」と思う。まわりで討論を聞いていた人達に見られていたから。
もしソクラテスが「負けた」としても、彼は悔しいとも恥とも思わなかっただろう。そうか!と満面笑みで喜んだだろう、真実を知って。
── しかし真実は「知る」ものなんだろうか。わかること、理解すること。それがすなわち「知る」ということなのだろう。
道を人に尋ねて「あの信号を右に、それから左に」と教えられ、「信号・右・左」の言葉はわかっても、信号とは何か、右とは何か、左とは何かを理解していなければ「知った」ことにならない。
このとき尋ねた人のテーマは道であり、目的地である。その行き方を知って、初めて目的が達せられる…
ブッダの場合はどうだったろう? やはり真実の求道者のようで、しかし「答」を自分自身の中に見つけた。そこから「教え」のようなものを尋ね人、困っている人たちに説いた。
インドだから宗教になってしまったが、結局ソクラテスの哲学と、その姿勢はとても似通っているように思える。
でも当時のギリシャにも「神」がいて、宗教はあったようだ。よく「ゼウスに誓って」と言う。
「生きること」、「生きる意味」、「生きるとは?」を探求するのが哲学── その目的は「どうしたら幸せに生きれるか」であって、ただ神を信じれば幸せになれる、というものでもなかったようだ。
ソクラテスの時代の「神」は、いわば裁判官、「見ているだけの」、判決を下さない天上の裁判長か。
良心、「ゼウスに誓って」私は嘘をつきませんという、自分の良心に「訴える」存在が、神だったような気がする。
その点は、まったく論理的でない。考えてみれば、あれほど論理的な(と思える)西洋の人たちが、神を信じている(と思える)のがまず不思議だ。
すると、信じるとは何だろうという疑問が湧いてくる。
私はブッダは好きだが宗教は好きでない。ブッダを信じているかと訊かれれば、信じてはいない。ああいう人になりたいとは思っている。なれないことも知っている。
自分の中から「悟り」を見つけたブッダと、人との対話から「真実」を見つけようとしたソクラテス…
やっぱり、おもしろい。