カン違い

「カン違いをしている」と思える、そのように見える人を、羨ましく感じることと時がある。

 だがこの時、カン違いをしているのは、どちらなのだろう。私か、その人か。

 カン違いの中に生きている人は、なんだか幸せそうに見える。

 そんな、たいしたこともしていないのに、さもたいしたことをしているかのように振る舞える人。もしくは、「自分はもっとレヴェルが高いのだが、こう書かないと一般に伝わらない」とばかりに、わざわざ腰を落として、かがんで窮屈そうに語りかける人。

 そんな窮屈さも、慣れてしまえば何ということもない。「それで自分は受け入れられているのだ」と、他者がほんとうにどう思っているのかも鑑みず、自己満足のみに生きることのできる人。自分のまいた水でその身を浸しているうちに、どっぷり首まで浸かり、ああ気持ちがいい、と言える人。その水が、どこから生じ、どこから来、気持ちよがっている自分について、詳細な点検をしない人。

 そのような人は、幸せそうに見える。自分だけが入居可能な水槽に、ひとりで泳ぎ、自分のことしか考えていないくせに他者のことも分かっているように振る舞う。しかも、妙に自信をもって。

 その自信の出どころも、何ということもない、ただの自己正当化であることを意識もしない。そんな意識の芽など、とうの昔に摘んでいる。

 このような人は、幸せそうに見える。カン違いどころの騒ぎでない、箸にも棒にも掛からない。掛かっているのは、古びた自分の首だけ。

 それは、ひょっとして、オレではないか。

 と、自己反省、省察した気になるオレも、この自分の水槽に泳いでいるだけかもしれない。

 彼がカン違いをしているのか、私がカン違いをしているのか。

 それを接点にしたいものだが、何しろ彼には絶対の自信がありそうなのだ。

 このような人間とは、なかなかうまくつきあえない。

 で、私は私の中へ還っていく。彼との交流は、御免被る。

 どうぞ勝手に、あなたのカン違いの中に生きて下さい。そしてきっと、その私も、その中にいる。