「どうすればよかったのか」

「どうすればよかったんだろう」と小声で独り言ちた。どうにもならなかったよな、と思った。

 その前に、「どうすればいいんだろう」と私は独り言をいっていた。その後で、「どうすればよかったんだろう」と言ったのだった。

 どうすればよかったのか。その答は自明なもので、どう、しようもなかった。

 その「どうすればよかったのか」の時点に戻ったとしても、私は同じことを繰り返すであろう。その一つの結果として、今、私がいるからだ。この今の私がいなかったら、そんなこと考えられもしないのだ。

 今の私がいるからそんなことを考えられる── 過去の私があって、今の私がある。

「どうすればよかったのか」と考えられるということは、考えられる今があるからで、何もそんな、悪いことではないと思える。

 何がベストだったのかなんて、その時自分がしたこと、あんな自分であったこと、それが「ベスト」であったのだ。後から、その時が過ぎた今だからこそ、そんなことを考えられるのだ。

 いいじゃないか、後悔ができるということ!

 そもそも私の場合、水の入ったコップをちょっとこぼしただけで、大変な悔恨に駆られる男なのだ。

 そしてこのコップをここ・・に置いたから、私はこぼしてしまったのだと考える。テーブルに、タバコの箱やらハンカチやらティッシュやらが雑然とあった。ここにしか・・・・・私はコップを置けない状態があった。

 タバコは右へ、灰皿は左に置き(中央はパソコンがあるのでこれは動かし難い)、ハンカチはティッシュの裾へ… 「あるべき所」に常にあれば、こんなヘマはしなかったのだと考える。だが、どういうわけか必ず雑然としてしまう。

 ならばいっそ、この雑然さの中で、うまく、あんなヘマをしないように注意する… この状態が「あるべき状態」であって、それを変えるのでなく、私が変わろう。そんなふうに考えたりもする。

「相手を変えようとするのでなく、自分が変わろうとすること。それが愛だ」とキルケゴールも言っている。

 職場の上司からは、「完璧主義者だからなぁ、かめさんは」と言われたことがある。

 完璧主義者? … 私は全然、愛のない人間なのかもしれない。