可能がある、ということだ。
不可能、それだけが単独であり得ないように。
可能(性)が、そこにある。
可能性があるから、不可能、と言えるのだ。
この可能(性)をしばし、みつめてみよう。
常識的なもの、いや常識というのは、まわりがつくったものだ。
病気になったら病院に行くとか。
子どもは学校に行くものだとか。
それはそれとして認める。だが、それ以上に深入りはしない。
ただ、その「常識」をぼんやり見るだけである。
私が鋭利に、よく、深入りしたいのはこの自分自身である。
ここに、可能やら不可能の、ぜんぶ、すべてがあるからだ。
まわりを、私は操作できない。
私自身をみつめれば、よく、みつめれば、… これは何といったらいいのだろう、「答」とでもいうのか、道標とでもいうのか、進むべき道のようなものが現出する手ごたえのようなものを感じることがある。
それは、それを伸ばすには、それを歩む…には、まわりの常識的なものは、はっきり言ってジャマになる。それを押さえつけ、窒息させ、その足そのものさえ失いかねない、危険なものになる。
私は、その危険なものからこの身を守るために、この身自身が、自己防衛をした。つまりは、トウコウキョヒとか呼ばれるものである。
私は、この身から、「私」を知らされた思いがする。
そして順調に、常識に潰されず、足を失うこともなく、私は歳を取った。なかなか、おかげさまで、よくやってきたと思う。
言葉にしてしまえば、「確認」の連続であったように思う。
お前はこういうお前なんだよ。お前は、こういうお前なんだよ。私の生命みたいなものが宿ったこの身体は、私に、よく、よく訴えてきた。
私はそれを否定したり、肯定したりして、しかしそれも「確認」だったように思う。
「もう、分かったかい?」身体が、いう。あきらめてくれるかい。この足で、やっていってくれるかい。わたしを、苦しめないで、いてくれるかい。
なかなか、忍耐も必要だ。でも、なるべく、きみに添うよ。あなたに、寄り添うよ。
そんなふうに息をしている、今日この頃。
そう、いいもわるいもない。私は、ただの私であって…