大体、「考え過ぎる」なんて、無いのだ。
考えは無限だ。それを「過ぎる」も過ぎないもないのだ。
それを「過ぎる」などといわせるのは、何の基準もない。
考えることに、スピード違反も重量オーバーもないのだ。
「考え過ぎ」を「よくない」とする風潮。何も考えない猿の言い訳だね。猿に失礼だが。
でも、そんな猿が多く、この世を闊歩しているよ。
申し訳ないが、事実だと思う、これは。
「これはよくない」「あれはいい、それはわるい」そんな価値基準、本人が自分で考えて出したものではない。
借り物、レンタル古着屋で着飾った、「これがいい」の価値観だよ。
なぜそれがいいのか、考えもせず、「まわりがそうだから」着るだけの。
さらに「同調意識」なんて言葉を羽織ってさ。なぜそんな意識が芽生えるのか、考えもせずに。
そう、たったこれっぽっちのことを考えることも、「考え過ぎ」とするんだろう。一体、じゃあ、何を「考える」というのかね。
「考え過ぎ」の何がよくないのかね。
考え過ぎはよくないよ、と優しいふりをしてアドバイスっぽく、さも分かったふりして寄り添ってくる人もある。
偽善者っぽいね。いやらしいね。ほんとに優しい人はね、その人と一緒に考えて、一緒に悩むよ。それが、ほんとうに寄り添うってことだ。
べつに、それを美化するつもりはない。でも、ただ何も考えていないに等しいような「ワタシは考えています」、「考え過ぎないで! あなたのためですよ」的な人が多い。
何様のつもりかね。ああ、あなた様のつもりだね。そのあなた自身のことは、あなた、ほんとに考えているのかね。
ワタシは資格を持っている? 精神鑑定医、泣く子も黙るカウンセラー様ですか。よかったね、おめでとう!
どうぞ、世のため人のために、ご活躍して下さい。しっぽり稼いで、このおかしな世の中に、化学調味料でごまかしの味を注ぐがいいよ。
考え過ぎないためのクスリでも処方して、薬剤業界との癒着を大切に、大手を振って歩くがいいよ。
よくできてる世の中だねえ。
何だっけ、ああ、「過ぎる」についてか。
無限に考えられるヒトの性能、生まれた時から備わっている「考える」性能を、わざわざ放棄しなさんな。
それだけが言いたかった。二、三行で終わる文章だったよ。