我思う故我無し

 病気による死は、自然死だと思っている。
 糖尿病、高脂血症、内臓疾患、高血圧、等々、老いればほとんどの成人が患っている病の如きもの。
 身体の機能、どこかが低下すれば、そこからサビが他の属品を浸食していくように。
 60年70年、人間やってりゃ、そりゃどこかおかしくなるものだ。

 足腰の弱り。転んで骨を折り、それをきっかけに一気に全身の活動が止まり、死へ近づいてくパターンはよく見聞きする。転ぶ、転び易くなる時点で、平衡感覚、視覚聴覚、何かの感覚的な機能が衰えているということになるだろう。

 自然なことだ。
 みじめなことだが、これが老いるということだろう。
 これを、そのまま受け容れるということ。それができれば万々歳だし、それがその時できる自己ベストの状態、最大限の、語弊はあるが「最高の」状態、と言えるだろう。

 あの人は同い年なのにあんなにしっかりしている、とか、あの人よりまだマシだとか、比べることはあまりにも小さなことだ。
 他人と比べることは、下賤な、みみっちい、愚かな物差しだ。

 切磋琢磨だの自分を高める競争だの、客観的だの他者をもって自己を知るだの、みみっちいミミズの背比べ、比べなきゃ価値もないという単細胞の判断、無価値・有価値、高次元低次元、あいつはバカ、こっちは頭良し、そういったバカげた基準を生み出す、愚にもつかぬ「たけくらべ」だ。

 幼い頃から老いて死ぬまで、こんな基準からでしか計ることができないとは!
 そんな基準をヒト族はつくり続け、過剰にそれに囚われ続け、その中でしか《価値》《意味》《自己》を見い出せなかったとは。
 それこそ悲惨というものだ!