椎名麟三は、その著作「自殺未遂者訪問記」で、自殺に向けて実際に行動に移し、病院に担ぎ込まれた未遂者達へのインタビューを敢行した。完遂した者からは、話を聞くことができなかったからだ。
椎名さんは自殺というものに、単なる自殺という事象では済まされぬ、追求されるべき人間の不条理さを感じていたのだと思う。
「病気を苦にして」「経済的な理由から」「失恋の痛手から」さまざまな理由があったとしても、それらが人間を自殺へ跳ね上げる踏み台になり得たとしても、それだけのために、ほんとうに人間は死ねるのか。
なぜ自分は自殺できなかったのか、という椎名さん御自身のこだわりもあっての、自殺未遂者訪問記だったと思う。
「あの人の洗濯物の干し方、ほんとに酷いわねえ、と近所で評判になったとする。そんな噂を耳にした当の主婦は、それだけでもう、生きているのがイヤになるだろう。
彼女は、洗濯物を干すために生まれてきたのではない。なのに、洗濯物のために、この世のすべてがイヤになってしまうだろう…」椎名さんは言う。
まったく、「これはサバだ」「いや、ブリだ」焼き魚ひとつのために口論となり、致命的な関係の決裂だって起こり得るだろう。
だが、それらはきっかけに過ぎない。ほんとうの問題は、そのきっかけをきっかけとして、その問題を人生の全体の問題にまで発展させることにある。
何がそうさせるのか。一つの事柄を、一つの範疇を越えて、「全体」、まるで無範疇のようにさせるもの…
椎名さんが訪れた、病院の医長は「まあ、自殺できる人は、その時、一種の狂気にあるんでしょうな」と言った。
生という一線を越えたところの死、そこへ行くには、狂うことが必要だった。狂う、それは、脇目もふらず一直線、無我夢中、とにかく夢中になる、ということ。
恋愛においても、誰かを好きになり、愛すれば愛するほど、自分が死んでいく気分になる時がある。
それはその相手に夢中になって、相手の中に、自分を失っていくからだろう。
狂気は、万人が持っている気分だろう。だが、その万人から、万人ではない「自殺者」が現われる。その狂気の壁を越える力とは…… 椎名麟三が話を聞いた自殺未遂者たちは、その実行の際、必ず「泣いていた」という。
「なぜ泣いていたのか分からないんですが、泣けて泣けて、仕方なかったんです」
そして、どうしてあんなことができたのか、いまでも不思議に思う、という。
椎名さんは、「もうダメだとほんとうに思ったら、ほんとうにダメになる」ことを小説に描写している。
その池は足の着くほどの深さだったのに、「もうダメなのよ! もうダメなのよ!」と、ほんとうにぶくぶく溺れそうになる女へ、ボートに乗った男は言うのだ、
「足が着くって! 足が着くんだって!」