「死に至る病」

「絶望は死に至る病である。それは永遠に死ぬという、死んで、しかも死なないという、死を死ぬという、この苦悶に満ちた矛盾であり、この自己における病である」
 キルケゴールのこの言葉を目にした15、6歳の頃は、何が何だか分からなかった。

 ただ、「あ、この人はホントウのことを言っている」ということだけは分かった。感じた、入ってきた。
 何かを真剣に追求していくキルケゴールの姿勢、その確かさに、打たれた。こういう言葉は、そういう人間からしか出てこない、とも強く感じた。

 真実?めいたものが、そこから湧き立っているのを体感した、初めての「哲学書体験」だった。
 これは、平凡社発刊の「世界の思想家」シリーズの「キルケゴール」で、その表紙に書かれていた言葉。

 他に、「不安はひとつの共感的反感であり、かつひとつの反感的共感である」とか、「結婚せよ、君はそれを悔いるだろう。結婚するな、君はそれをやはり悔いるだろう。結婚するか、しないかのどちらかだが、いずれにしても君は悔いるだろう」などが書かれている。

 いずれも、キルケゴールの著作から抜粋された短い言葉が、その本の表紙を飾っていた。

 キルケゴールは、「私の著作を読んでいるうちに、読者が自己に覚醒することがあったなら、残りの部分は読まないで、ただちに自分自身に関わることを進めてほしい」と言っている。

「人間が他者に対してできることは、その人が自己自身となるのをたすけること」と信じていたキルケゴール。
 かれの著作を通じて、ぼくはまさに自己自身になるきっかけを得ていると思う。でないと、あれだけ真摯に、難しいことを書き続けたかれに、失礼というか、申し訳なくも感じる。

 ぼくの、ない頭で、この「死に至る病」の一言の第一印象をそのまま書けば、不安や絶望の中にこそ、生きている意味がある、と言うことができる。
 生きる意味は、不安や絶望があるからこそ、あるんだ、と。

 きっと、人生は希望に満ち溢れる時間より、惰性の電車に乗って、運ばれるだけの時間の方が多い。さらに、時には言いようもない絶望、希望が一さじもないと思える時間が波のように訪れる。
 危機的な、精神のピンチの時間。その時間は、あたかも永遠に続く、圧倒的な「絶望さま」に支配される時間に思われる。

 どうしてこうなるのか? というところから、あれこれと考え、むかしの哲学の轍を踏み直し、思想家たちは四方へ飛んでいく自分の頭の中を子細に書き続けたように思う。
 そしてキルケゴールは、ニーチェと同じく、机にかじりつくような研究態度よりも、自分の著作を通じて、読者ひとりひとりの自己自身に目覚めるよう、個々人が生活を生きる中で、自分の著作が生きた形で生かされることを強く望んでいた。

「死に至る病」。
 冒頭に引用した言葉から、自分なりに考えたこと。
 望みがないということ── それは、生き生きとした望みがある時間にくらべて、死のような永遠の時間であるということ。

 生は永遠でない。死によって、時間によって限定されている。限定されないものは、無限であり、永遠であるかのように思えるということ。

 希望は、目的から限定を受ける。目的を持った自分がその目的に向かうことができる時、希望は初めて希望となるだろう。
 しかし絶望は、目的を持たない。
 目的の対象から拒否され、自分から主体的に、目的へ歩を進めることができなくなる。

 停滞した不安や絶望を抱える精神は、限定を失い、枠を外れる。
 だが、それは何も、今に始まった精神のはたらきではない。不安を見つけることが、心の本来のはたらきなのだ。それは心の、うまれた時からある姿である。

 人間は、だから不安なしでは生きてこれず、不安とともに、心とともに、生きていくことになる──