ニーチェの精神

 ツァラトゥストラの生き方。

 ── 私は偉大である。この偉大さを理解する人間は、下界に望めない。
 掃いて捨てるほど、つまらない者に埋まっている下界。
 私は、その中で私の偉大さを霞めない。
 私は、あまりに偉大すぎる。

 私の滅亡は、人類の滅亡を意味する。
 私は人類である。私という教科ができあがり、学生がまなぶ日も、遠からぬことではないだろうか。
 私は人類のすすみ方を指し示す。
 よく眠るための枕を人は求める、だが私はよく進むための足を差し出す…

 さしずめ、ニーチェの精神を支えた彼の肉体は、このような情念、思念から立っていたかと想像する。
 ぼくは「ツァラトゥストラ」と「この人を見よ」しか読んでいないけれど(「善悪の彼岸」は挫折した)、ニーチェの心情、申し訳ないが解かる気がして仕方ない。
「この人を見よ」など、読んでいて、何度笑えたことか。

 ニーチェ自身、大まじめに書いていたのだとしたら、土下座ものだが、笑うぼくを、彼はあの髭を少しだけ上向きにさせ、目を少し波立たせ、つまり笑って見つめてくる気がする。
 あるいは、キッと鋭い目を向け、睥睨してくるので、ぼくが土下座をする。すると彼は、やはりニヤリと笑う気がする。

 万人が、自尊心を持っている。きっと誰でも、自分を尊いものだと思っている。
 ひと皮むけば、ヒト、自分自身が唯一無二の絶対者なのだ。
 ところが、誰もが唯一無二の絶対者であるのだから、その本性を隠さなければ、とてもじゃないが人間界ではやって行けない。

 そこに偽りが生まれ、自分自身を偽ることで、また偽りの関係が生まれ、偽られた自分自身が生まれ── まるで偽りが本性であったかのように捻じ曲げられてしまう。

 捻じ曲げられた姿が、この世でいう「正常」であり、そのようにして人間界は二通りに「進化」してきたのではないか、とさえ思う。
〈 兄弟たちよ、私を見よ。私の話を聞け 〉彼は言う。〈 超克せよ。〉

「自然に帰れ、自然に生きよ、と上古の思想は口を揃えて言うけれど、人間は自然ではないのだ」
 彼は言う、「私を崇めるな。兄弟たちよ、私を捨てよ。この私を師と仰がなくなった時、私はまた、兄弟たちよ、おまえたちの前に現れるだろう」

 ツァラトゥストラは、ニーチェ自身だ。
「もう、ツァラトゥストラに語らせない。私自身が喋る」と、「ツァラトゥストラ」の続編を書く構想があったそうだが、形になることはなかった。

 真実、正しさ、といったものを、彼はけっして求めない。それを超えていくことを求めた。
 嘘、不正は、真偽の相対だから、それを超えていかねばならない。とどのつまりは、超え続けていかねばならない。
 あらゆる相対を、絶対を、跳び超え、跳び超えし続けなければならない…

 三島由紀夫は、人をその気にさせる中国の陽明学に影響を受けたといわれるが、ツァラトゥストラの影も大きかっただろう。
 太宰は、本をもとうとしない人だったが、ツァラトゥストラと「ニーチェ全集」はいつもあったということだ。

 ドイツのナチスは、ニーチェの超人思想を利用し、人をその気にさせようとしたそうだ。
 しかしニーチェは、「生きること」をまず第一に大前提にしていたはずで、死を、自己にも他者にも促すような解釈は、不本意だったはずだ。

 虚と実を繰り返し、繰り返しを繰り返す、この「世界」を見続ける勇気、それを超えていく勇気を、人間に備えてほしい── そんな願いが根柢にあったはずだ。
 彼は、ソクラテスを「人類を頽廃させた」と罵り、神への信仰を「デカダンだ」と否定した。

「賢者の思想や偉大な信仰に、殺されるな。
 兄弟たちよ、一個一個のきみら自身の肉体に、きみの求めるものがあるではないか。
 生きよ、生きよ。借り物の精神や魂にでなく、きみ自身に生きよ」

 彼は、そう言いたかったのではないか。
 この世を創造しているのは、神でも思想でもなく、ひとりひとりの存在なのだということを。